復活する生態系

水の話 No.164 特集 復活する生態系 環境未来都市をめざす北九州市

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公害の街から環境未来都市へ

市街地のビルの間から、赤と白に塗られた高い煙突が間近に見えます。 その一方で緑豊かな山も近くに広がります。 北九州市はもともとが自然に囲まれた大都市で、市内にはたくさんの川も流れています。 かつて深刻な公害問題があった都市とはとても思えません。

四大工業地帯の一つに 数えられていた北九州

 目映いばかりの市街地とキラキラ輝く洞海湾に映し出されるコンビナートの光、遠くには玄界灘や周防灘も見渡せます。北九州市全域を望むことができる皿倉山からの夜景は新日本三大夜景にも選ばれています。北九州市はかつて京浜地域、中京地域、阪神地域とともに日本の四大工業地帯の一つと呼ばれ、日本の経済発展を支えてきました。
 北九州市発展の原動力となったのは筑豊で採れる石炭でした。石炭は戦国時代の頃から住民たちが自家用に篝火や薪として使っていたようです。江戸時代になり燃料としての価値が高まるにつれ、製塩業者や瓦製造業者の間での需要が高まっていき、若松から瀬戸内海を通り大阪方面まで運ばれていたようです。
 明治時代になると、欧米列強と対抗するため、政府は富国強兵、殖産興業の政策をとり、日本の近代工業化を推し進め石炭輸送のための鉄道や港湾が整備されていきます。1901年(明治34年)に官営の八幡製鉄所が操業を開始しました。その後、現在の北九州市一帯は、鉄鋼、化学をはじめとした重化学工業の街として発展を遂げていきます。

赤い橋は若松区と戸畑区を結ぶ若戸大橋です。かつてはこの辺りが洞海湾の入り口でした。

発展の象徴とされていた工場排煙

 鉄鋼と石炭の街北九州地域は第二次世界大戦で敗れた日本の復興に大きな役割を果たしました。日本の高度経済成長がはじまると北九州工業地帯はさらに発展をしていきます。
ところが経済発展を続けている傍ら、日本の各地で工場から排出される排煙や煤塵や廃水による大気や、海の汚染が進行しました。北九州地域も例外ではありません。排煙には赤や白、黒などさまざまな色がついていたため、七色の煙と呼ばれました。ただ、公害問題より経済成長が重視されていた時代です。市民の中には七色の煙を発展の象徴として捉える人もいました。
1960年頃から日本のエネルギー政策が石炭から石油へと転換されます。北九州地域のさらなる発展のため、1963年(昭和38年)に当時の門司市、小倉市、若松市、八幡市、戸畑市の5市が合併し、人口約100万人の北九州市が発足しました。

1960年代のボタ山(左)。一般の山と区別がつかなくなった現在のボタ山(右)。ボタとは選炭した後に残った石や質の悪い石炭のことで、ボタを捨ててできた山をボタ山と呼びます。石炭は重要なエネルギー源として日本の産業発展を支えてきました。 (写真左:橋本正勝氏撮影)

埋立てによって 変貌していった洞海湾

 1960年代は日本各地で公害問題が顕在化した時期です。沿岸部は埋め立てられ、工場地帯へと変わっていきました。北九州市の北西部にある洞海湾はもともと東側がずんぐりとした形で、西側は細長い川のような形状をしていました。それが15世紀頃から新田開発のために埋め立てられていきます。水深は浅いところで1.5〜2mしかなく、干潮の時は船の出入りが困難であったとされています。
 明治以降は工場地帯としての開発が進み、現在のような奥行き13km、幅が数100mの細長い水路のような形となりました。2万t級の大型船も航行ができるように航路部分は水深が10mほどに浚渫されました。

漁獲高ゼロになった 豊饒の海

 洞海湾の開発が進み、湾岸一帯に工場が建ち並ぶにつれて問題となったのが工場廃水による深刻な水質汚濁でした。かつてはクルマエビ、タイ、フグ、カキなどの宝庫で、アマモ場もいたる所で見ることができましたが工業地帯として発展するにつれ、湾岸の大部分が人工護岸となりました。豊かであった魚介類は姿を消していきます。
 海の汚れは大正時代から漁師たちの間では問題となっていました。1933年(昭和8年)に福岡県水産試験場がおこなった調査では、19種類の魚介類や14種類の海草・海藻がすでに見られなくなっていたのです。1942年(昭和17年)にはついに漁獲高がゼロになりました。
 日本の経済が成長していく一方、全国的に工場廃水による水環境の悪化が進行していました。1958年(昭和33年)には水質保全法と工場排水規制法の、いわゆる水質二法が制定され、河川や海洋の水質汚染を防ぐための法的な規制がはじまります。
 その後も重化学工業の発展を図るため、臨海部につぎつぎと工場がつくられていき、水質二法だけでは水環境の悪化を防ぐことができない状態が続きました。
 1967年(昭和42年)には公害対策基本法が施行されますが、この年、大阪湾や伊勢湾のCODが約10mg/ℓであったのに対し、洞海湾では約74mg/ℓもの値を示していました。湾の奥から中央部にかけての溶存酸素量もゼロでした。
 ついに洞海湾は「死の海」と呼ばれるようになってしまったのです。そして魚がすめるような海には二度と戻る事が出来ないのではないかと思われました。

1960年代の公害が激しかった頃の北九州市。空は排煙で覆われ、海は廃水で赤や茶色に染まっていました。(写真提供:北九州市環境局)

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