水のお値段

  • 一覧へ
  • 前のページ
  • 1
  • 2
  • 3
  • 4
  • 5
  • 次のページ

「湯水のごとく使う」の意味を考える

日本に水田耕作が定着したわけ

 日本の原風景という場合、引き合いに出されるものの一つが農村風景です。明治時代まで日本の人口の約9割が農民でした。生活の基盤となっていたのは農村です。周辺には田畑が広がっていました。いまも日本の耕地面積のうち約54%が水田で占められています。
 日本へ稲作が伝えられたのはいまから2000年前だといわれています。そして稲作が定着します。日本に稲作が定着したのは国土に適していた作物だからでした。
 農業を営むには、平地が必要です。ところが日本は国土の約67%が山地で占められています。農業に利用可能な平野の面積は約25%とされていますが、実際に農地として使われているのは約13%です。そして一人当たりの農地面積を2002年の統計から見るとドイツの約5分の1、イギリスの約8分の1、フランスに比べると約13分の1しかありません。この数字をそのまま過去の時代に当てはめることはできませんが、日本では農地として利用できる土地が、ヨーロッパなどにくらべて多くはなかったことだけは確かです。
 ところで、ヨーロッパの食糧は小麦と肉が中心です。小麦は当然、畑で栽培されますが、牧畜をおこなう場合もエサとなる草が生える土地が必要です。畑作物を同じ土地で作り続けると地力が落ちてしまいます。そこで中世のヨーロッパでは、農地を3等分し、冬の作物、夏の作物、休耕地といったローテーションを組んだ三圃式農業が盛んにおこなわれていました。休耕地では放牧をおこない、家畜の排泄物を肥料として地力を回復させました。こうした農業の形態は、広い農地が必要になります。
 ところが日本には三圃式農業を営めるだけの広い農地を確保できるような土地がありませんでした。一方、水田耕作は連作が可能で、同じ土地で何10年、何百年も栽培を続けることができます。極端にいえば三圃式農業で使う農地の3分の1の広さがあれば食糧の確保ができるということです。また植物の生育には太陽のエネルギーが必要です。水田は太陽エネルギーを効率よく利用できるのです。
 江戸時代中期に、日本の農地は一人当たりに換算して10a(約990m²)であったとされています。同じ頃のヨーロッパでは一人が生きられる食糧を確保するにはその10倍の農地が必要であったといわれています。

薄れていった水の中の生きものへの関心

 水田耕作に水は欠かせません。稲が実るまでの田んぼでは、田植、草取り、畔の管理などがおこなわれます。こうした農作業は水田耕作が始まって以来、長年にわたり手作業でおこなわれていました。現在は耕耘機などの機械を使って作業をおこなうことで農作業はずい分と楽になり、仕事の効率は上がり、生産も飛躍的に伸びました。しかし、機械を扱うことで、手作業に比べると田んぼからの距離がほんのわずかですが遠のきました。
 九州のある地域で農民が田んぼにいる生きものの名前をどれだけ知っているのかを調査したところ、現在では平均すると約150種類だということです。ところが昭和40年代頃までは平均して約600種の名前を知っていたそうです。知っていたということは、その生きものが人にとって役立つかどうかではなく、生きものに関心を持っていたということです。ところが田んぼとの距離がほんの少し遠くなっただけで、生きものを見る機会が少なくなったのです。生きものへの関心が薄くなったということは、生きものがすんでいる場所である水に対する関心も薄くなったということです。

田んぼの中にすむ生きものに対する関心は、昔に比べて薄れているようです。

常に水害を意識した暮らし

 日本の川は高い山から一気に海へと流れ下るため、急流となっている場所がたくさんあります。舟や筏は重要な交通手段として、あるいは木材運搬手段として利用されていました、当然、川での事故も起きていました。また季節によって水量の変化も大きく、世界の河川と比べると、日本の河川の変動は数10倍から数100倍に達するものさえあります。日照りが続けば田んぼへ引く水が足りなくなります。大雨のときは洪水となって人や田畑に襲いかかってくることがあります。水は命を育む大切な場所であると同時に、時として猛威を振るいます。自然は常に優しく、美しいだけではないのです。
 日本で稲作がおこなわれるようになった頃の水田は湿地の様な場所を利用していました。雨が降れば周辺にも水が溢れる様な場所です。住居は少し離れた高台につくられていたようです。あるいは住居の周囲に盛土をしていたようです。
 水田耕作は水の豊かな場所が必要です。その一方で、常に水害を意識して暮らしていかなければなりません。

木曽三川と輪中

 両岸には頑丈そうなコンクリートの堤防が続いています。堤防の下には河原が広がります。水が流れているのは川の中央部分だけで、堤防まではかなりの距離があります。こうした普段の川の表情からは、堤防のところまで水が迫ってくるとは簡単に想像ができません。
 日本のように、距離が短く勾配が急な河川の場合、大雨が降ると広い河原もあっという間に水没し、堤防のすぐ下まで増水します。そこで大雨のときに川の氾濫を防ぎ、増水した川の水をできるだけ短時間で海へ流せるよう、連続した直線的な堤防が設けられています。しかしこうした堤防が昔からつくられていたわけではありません。
 岐阜県(美濃)南西部から愛知県(尾張)北西部にかけて広がる濃尾平野は木曽三川と呼ばれる木曽川、長良川、揖斐川の3本の川によって運ばれた土砂によって形成された沖積平野で土壌は肥沃です。そのため昔から稲作が盛んでした。かつて木曽三川は濃尾平野へ流れ出てから少し下った辺りで合流と分流を繰り返し、網の目のような形となって乱流していました。そして大雨が降るたびに流路が変わっていました。
 木曽三川のうち、一番東を流れる木曽川の川床が最も高く、中央を流れる長良川、一番西を流れる揖斐川の順に川床が低くなっています。そのため木曽川が増水すると、溢れた水は長良川、さらに揖斐川へと流れ込んでいきます。その上、木曽川の左岸は江戸時代の徳川御三家筆頭である尾張藩の領地であったため、50kmにも及ぶ堤防が築かれて尾張を洪水から守っていました。しかし対岸の美濃の堤防は尾張よりも3尺(約1m)低くしなければならないとされていました。
 3本の川は本川から分流した何本もの派川によって繋がれていました。本川や派川に囲まれたいくつもの中洲や三角州が島のように形成されていました。大雨の時には木曽川や長良川の水が川床の低い揖斐川へ派川を通って勢いよく流れ込み、島状となった土地に大きな被害を出していました。そこで3本の川を分離することで洪水被害を少なくする事が考えられました。
 こうした地域では島の周辺を堤防で囲み、集落全体を洪水から守る輪中がつくられていました。しかし輪中の中はもともとが川の中に土砂が堆積してできた低湿地で、高台の様な場所はありません。そして洪水のたびに農地や人命に大きな被害が出ていました。

宝暦の治水工事が完工した時に、揖斐川と長良川を分流する締切堤防に薩摩藩士が植えたと伝えられている千本松原。

宝暦治水

 江戸時代中期の宝暦年間(1751年~1763年)、尾張藩(現愛知県)は薩摩藩(現鹿児島県)に木曽三川の治水工事を命じました。江戸時代における最大の治水工事で、宝暦治水として知られています。
 木曽川の浚渫工事や堤防の補強工事のほか、長良川から川床の低い揖斐川へ流れる派川の締切工事などがおこなわれました。ただ、支流を完全に閉め切ってしまうと、長良川が増水した時、揖斐川へ流れ込まなくなり長良川流域が危険な状態になりやすくなります。さらに派川によって繋がっていた両河川の航路が断たれることにもなってしまいます。
 そこで水位が一定の高さになると堤防を越える越流堰や舟の航路を確保できる様な食い違い堰がつくられました。大変な難工事で多くの薩摩藩士が犠牲になりました。長良川と揖斐川との境には、当時の薩摩藩士たちが植えたとされる千本松原が残されています。しかしこれで完全に水害を防止することはできませんでした。完全な三川分流は明治時代になり、西洋の近代的治水工事が取り入れられるまで待たなければなりませんでした。

木曽三川によって形成された濃尾平野は日本最大の海抜ゼロメートル地帯が広がっています。土地は肥沃で昔から農作物が豊かである反面、洪水にも悩まされてきました。

  • 一覧へ
  • 前のページ
  • 1
  • 2
  • 3
  • 4
  • 5
  • 次のページ