水の話
 
水との戦いが作り出した水郷地帯

池をつなぎ合わせたような形をした堀
 旅情豊かな柳川の水郷地帯に、かつて水の獲得を巡っての熾烈(しれつ)な争いがあったことなど想像もできません。観光客が行き交う市内の表通りから裏通りへ足を踏み入れると、幅1メートルにも満たない細い水路が民家の裏を流れています。流れをたどると観光川下りのどんこ舟が浮かぶ大きな水路へ行き当たります。川幅の広いところから狭いところまで水路の幅はさまざまです。しかも、それらの水路はあたかも普通の道のように三叉路や十字路をつくり複雑に絡み合っています。
柳川の市街地を流れる水路は矢部川の派川・沖端(おきはた)川から水門をへて取水されます。水門から取り入れられた水は城を守るお堀や干拓地へと流れていきます。有名な川下りは、かつての城の堀を巡ります。堀端には明治時代に建てられた赤レンガづくりの古い建物やなまこ壁の屋敷など
が柳川情緒を誘います。 
水面は静かです。ゴミが浮かんでいれば水が流れているのかどうかすぐにわかります。しかし流れを確かめられるものが見当たりません。高低差の少ない土地に作られた堀です。むしろ流れの緩やかなことが当たり前かもしれません。しかし流れがなければ水は澱んでしまい生活用水として使うには適切とはいえなくなります。岸辺から枯れ葉が1枚落ちてきて、やっと水が流れていることを確認できます。
堀に架かる橋は橋台が両岸から川の中へと張り出しています。しかも上の方が広がってV字形をしています。石造りの橋台の中には縦に溝が掘られて水門になっているものもあります。堀というよりは長細い池を水門でつなぎ合わせているような雰囲気さえあります。こうした堀の構造は柳川独特のものです。そこに柳川の地形と水路との密接な関係が見られます。
大小様々な水路
民家の裏にも大小様々な水路がつくられています。川下り舟が入れるだけの幅も水深もありませんが、こうした風景を舟から見ることができます。
赤レンガの倉庫
歴史を感じさせる建物
水路に沿って明治時代に建てられた赤レンガの倉庫や北原白秋の生家、柳川藩主の別邸など、歴史を感じさせる建物や由緒ある建物があります。


街を守るための重要な機能を秘めた水路
 その昔、有明海の底であった所に土砂が堆積した柳川の地下は粒子がとても細かい粘土層が幾重にも重なっています。粘土層の含水率は70%にもおよんでいます。ちょうど豆腐の上に街がつくられているようなものです。高層建築はあまり見かけません。地盤が軟弱なため丈夫な基礎がつくりにくいからです。極端にいえば基礎工事の杭を打ち込まなくても、自重で地面に潜り込んでしまうといわれるほどの柔らかさです。場所によって粘土層の厚みが20メートルもあるため、それ以上の深さまで杭を打ち込まなければなりません。
街全体が湿地の上に浮いているといってもいいのかもしれません。そんな土地から地下水を汲み上げていったなら、地盤沈下を引き起こしてしまいます。実際、柳川の近隣にある干拓地では、地下水を汲み上げたことによって、建物や橋が大きく沈み込んでしまったところがあります。地盤沈下を防ぐには、地下水の汲み上げを止めるだけではなく、地下水を涵養(かんよう)することも重要です。柳川は有明海が満潮になったときには地面の高さが海面より低い位置になってしまいます。地盤沈下は街の存亡にも関わる重大な事態を引き起こしてしまいます。実は地下水を涵養するという機能こそ、柳川の水路がもっている最も重要な機能であったのです。

柳川のまちと堀割
柳川を流れる水路は市街地部分だけでも総延長が60キロメートルにも及びます。
(写真提供:柳川市役所)

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