水の話
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水環境をきれいにする取り組みの歴史
湾の向こう岸に赤と白の段だら模様に塗られた何本もの煙突が見えます。こちらの岸辺には水環境の再生のため、アマモを養殖しているので海辺へ入らないようにして下さいと書かれた看板があります。空だけではなく、海も美しく再生するための取り組みが続けられています。

きれいになった都市部の河川

 魚が泳ぎ、水草が揺れています。サギが餌をついばんでいます。川の中にはごみも見当たりません。以前に比べてきれいな川が都市部に増えています。いまは美しい水の流れを取り戻している川も、かつてはドブ川と呼ばれ、悪臭を放っていることがありました。ごみを平気で捨てる人も後を絶ちませんでした。川の汚れが目立ち始めたのは1960年代頃からだといわれています。川の水はやがて海へと流れ下ります。同時に海の汚れも深刻化していきました。ただし海が汚れていったのは川の汚れだけが原因ではありませんでした。



経済成長と水域の汚染

 戦後の日本は荒廃した国土を立て直すため、それまでの繊維産業などの軽工業を中心とした産業から、石油、化学、鉄鋼といった重化学工業へ力をいれるようになります。
昭和25年(1950年)には国土総合開発法が制定されます。昭和35年(1960年)には太平洋ベルト地帯構想が打ち出され、昭和37年(1962年)には全国総合開発計画構想を策定し、臨海部に工場がつくられていきます。
重化学工業は大量の原材料を海外から輸入し、製品を輸出します。そのため大量輸送の可能な大型船舶が出入りしやすいように港湾の整備が進められました。臨海部の埋め立てや護岸工事などによって自然の海岸線はどんどん減少していきました。
太平洋ベルト地帯とは関東の南から北九州までの工業地帯のことで、その中でも京浜工業地帯、中京工業地帯、阪神工業地帯を3大工業地帯と呼んでいます。3大工業地帯はいずれも前面に東京湾、伊勢湾、大阪湾といった3大湾、そして背後には大都市圏があり、多くの人口を控えています。
1950年代から1960年代にかけ、日本では経済復興が最優先され各地で公害問題が発生します。しかし多くの人にとって環境問題はそれほど大きな関心事ではありませんでした。都市部を流れる川は単なる生活用水の捨て場所となっていきました。川沿いにある工場からも、廃水が放流されました。汚れた水が最終的に行き着く場所は海です。さらに臨海部の工場から直接海へ放流された廃水によって特に閉鎖性水域の湾の汚れが進みました。海底にはヘドロが堆積していきました。こうして、海洋の汚染が進んでいました。
昭和33年(1958年)には水質保全法と工場排水規制法という、いわゆる水質2法が制定され、河川や海洋の水質汚染を防ぐための法的な規制が始まりました。


工業地帯
日本の高度経済成長期には関東から九州までの各地に工業地帯がつくられました。同時に大気や水などが汚染されはじめ、後に公害問題が起こりました。

港
大都市の周辺部は臨海部の埋め立てによる港湾整備や護岸の改変によって、自然の海岸線を目にすることができなくなっています。

川
かつて都市部を流れる川や用水は、ごみ捨て場、暗渠にされるものもありました。一方、岡山市の中心部を流れる西川用水のように1970年代から緑道公園として整備され、水鳥や市民の憩いの場となっているものもあります。



水質2法から水質汚濁防止法へ

 水質2法だけでは水環境の悪化を防ぐことができない状態が続きました。水質以外にも大気汚染などさまざまな公害問題が起きてきたため、昭和42年(1967年)に公害対策基本法が施行されることになり、昭和45年(1970年)には水質2法に代わり水質汚濁防止法が制定されます。この法律は公共用水域や地下水の水質汚濁を防ぐことで、国民の健康の保護と生活環境の保全とを目的にして、工場や事業場からの公共用水域への排水や地下に浸透する水の規制、生活排水対策をおこなうというものです。
排水基準としてはカドミウム、シアン化合物、六価クロムといった有害物質に関する健康項目とBOD、COD、pH、浮遊物質、窒素、リン、大腸菌群といった生活環境項目とに大きく分けられています。水質汚濁防止法の規制を受けるのは人の健康を害するおそれのあるもの、又は生活環境に対して害をもたらすおそれのあるものを含んだ水を流す施設で、規制の対象となる事業場などは特定施設として水質汚濁防止法施行令で具体的に定められています。
当時は水質汚染のなかでも、特に人体の健康に害のある有害化学物質による汚染が問題となっていましたが、こうした水質規制などにより、その後は工場廃水による水質汚濁は徐々に改善していきました。その一方で臨海部の開発は進み、自然海岸が減少していきました。





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