戦後の日本は荒廃した国土を立て直すため、それまでの繊維産業などの軽工業を中心とした産業から、石油、化学、鉄鋼といった重化学工業へ力をいれるようになります。
昭和25年(1950年)には国土総合開発法が制定されます。昭和35年(1960年)には太平洋ベルト地帯構想が打ち出され、昭和37年(1962年)には全国総合開発計画構想を策定し、臨海部に工場がつくられていきます。
重化学工業は大量の原材料を海外から輸入し、製品を輸出します。そのため大量輸送の可能な大型船舶が出入りしやすいように港湾の整備が進められました。臨海部の埋め立てや護岸工事などによって自然の海岸線はどんどん減少していきました。
太平洋ベルト地帯とは関東の南から北九州までの工業地帯のことで、その中でも京浜工業地帯、中京工業地帯、阪神工業地帯を3大工業地帯と呼んでいます。3大工業地帯はいずれも前面に東京湾、伊勢湾、大阪湾といった3大湾、そして背後には大都市圏があり、多くの人口を控えています。
1950年代から1960年代にかけ、日本では経済復興が最優先され各地で公害問題が発生します。しかし多くの人にとって環境問題はそれほど大きな関心事ではありませんでした。都市部を流れる川は単なる生活用水の捨て場所となっていきました。川沿いにある工場からも、廃水が放流されました。汚れた水が最終的に行き着く場所は海です。さらに臨海部の工場から直接海へ放流された廃水によって特に閉鎖性水域の湾の汚れが進みました。海底にはヘドロが堆積していきました。こうして、海洋の汚染が進んでいました。
昭和33年(1958年)には水質保全法と工場排水規制法という、いわゆる水質2法が制定され、河川や海洋の水質汚染を防ぐための法的な規制が始まりました。
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