水の話
 
窒素・リンの除去に取り組む町
いまでは多くの市町村が河川浄化に取り組んでいます。
ところで、行政区分としての市町村は別であったとしても川は1本の流れです。
いくら下流域で河川をきれいにしても、上流から汚れた水が流れてきたならばせっかくの河川浄化の効果も半減します。
特に窒素・リンなどは目に見える汚れではありません。窒素・リンを除去して初めて下流域の水がきれいになるのです。

城よりも水がシンボルとなっている町
 岐阜県をほぼ南北に流れる清流長良川、シーズンになると鮎釣りをはじめとした多くの釣り人で賑わいます。長良川を上流まで遡っていくと、川原が開けた場所に出ます。吉田川が東から合流しています。吉田川の上流を望むと、山の上に建つ城が見えます。ここは郡上踊りで有名な岐阜県郡上郡八幡町です。三方を山で囲まれ、町の中を吉田川、小駄良川、乙姫川が流れ、古い佇まいがいまも残されています。
八幡町は、戦国時代末期に八幡山に築かれた八幡城のもとで発展した城下町です。しかし、ここでは城よりも水が町のシンボルとなっています。その中でも特に有名なのが昭和60年に環境庁の全国名水百選に選ばれた「宗祇水」です。この湧水のほとりに室町時代の連歌師、飯尾宗祇が庵を構えたため宗祇水と呼ばれるようになりました。その後も町の人々は生活用水として宗祇水を使っています。その宗祇水ですら郡上の美しい水の象徴の一つでしかありません。町の東に石灰岩層が広がり、町では豊富な湧水が見られます。それらの水を利用して、町の中に張り巡らされた水路では透き通った水が流れています。用水が整備されたきっかけを作ったのは、江戸時代にこの町を襲った大火でした。時の城主は城下町を改造し、何本もの用水を張り巡らしたのです。水路は防火のためだけではなく、人々の日常生活の様々な場面へと取り入れられていきました。
宗祇水
小駄良川が吉田川と合流するすぐ上流部で、いまもこんこんと湧き出る宗祇水。この水は八幡町のシンボルとなっています

吉田川
八幡町民にとって、吉田川は子供の頃から川遊びで馴れ親しんでいる川です。水はきれいで当たり前、決して汚してはいけないというという意識が自然に生まれているようです。

生活に根ざした美しい水を守る知恵
 用水路の水源は谷川や沢です。八幡町の上水道も犬啼谷(いなきだに)上流で湧き出る水が使われています。犬啼谷の上流ではかつて天然氷を作る氷田がありました。万延2年(1861年)の夏、猛暑のため八幡城主の奥方をはじめ多くの町民が病を患いましたが天然氷によって救われたため、氷田が作られるようになりました。その後昭和30年代まで氷田で氷が作られ町の特産品の一つに数えられていました。やはり水の良さが氷の品質にも現れていたのでしょう。
用水は生活の中で様々な用途に使われてきたため、昔から水を大切にしようという住民意識がありました。いまも道端ではパイプや竹樋などで引いてきた湧き水や沢水を溜める水舟を見かけることがあります。昔は板で風呂桶のように作るか、丸太を刳り貫いて作られていましたが、いまではコンクリート製に替わったものもあります。八幡町ではその水舟が一つだけではなく、複数が段状に組み合わされています。一番上の水舟は飲用にします。次の段は食べ物を洗うのに使います。その下の水舟は食器などの洗い物に使います。さらに水舟の下にはコイなどの魚が泳いでいる小さな池が作られているものもあります。野菜クズなどは沈澱したり魚のエサとなり、汚れが用水の中に入るのを防いでいるのです。
そんな水との深い係わりをもった八幡町ですが、昭和50年代には町を流れる吉田川や小駄良川の水が汚れかけたこともありました。川を汚すことは、そのまま町民の生活を破壊することにもなりかねません。そこで台所の排水口にネットを被せてゴミを取り除き、油で汚れた食器は紙などできれいに汚れを拭き取ってから洗うなどの運動が行われました。
八幡町の中を流れる用水
八幡町の中を流れる用水。自動車などの増加で、用水の多くはふたをされていますが、昔はこの水が生活用水として使われていました。

階段状 カワド カワド
カワド
八幡町では用水の一部に屋根がつけられ、洗い物などのできる場所をカワドとよんでいます。いまも実際に使われているカワドを町の中でみることができます。また、湧水などが引かれた場所には水舟があります。水舟は複数の水槽を階段状に置き、上から飲用、野菜などの洗い物用といった順番で使われます。


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