早朝から釣り糸を垂れる人がいました。釣り上げた魚はそのままリリースしています。釣っているのはハゼでした。ここは佃煮で有名な佃島の一角です。かつては小さな島で、付近の海ではたくさんの魚が獲れていました。しかし今では大都会の一角にしか過ぎません。
握り寿司の登場で広まった江戸前
江戸前と書かれた寿司屋の暖簾(のれん)をよく見かけます。今では寿司といえば握り寿司が一般的ですが、寿司の起源は琵琶湖のふな寿司のような「なれずし」です。これは米の中に魚を漬けて自然発酵させた保存方法の一つでした。こうした寿司は各地で様々な形で発展していきました。
握り寿司が登場したのは江戸時代の文化・文政年間(1804年~1830年)で、江戸の両国の人の発案だとされています。当時は新興都市である江戸よりも上方(関西)の方がはるかに古い歴史と文化を誇っていました。そんな江戸で考案された握り寿司です。上方の押し寿司と明確に区別する意味もあったのか、江戸前寿司という言葉が使われるようになりました。そして屋台で立喰いとして供された握り寿司は全国へと広まっていきます。そこには江戸風の寿司という意味も含まれていたようです。
ところで江戸前とはもともとが江戸城の前面に広がる海のことで、そこから獲れた魚そのものが江戸前と呼ばれるようになりました。しかも江戸前の言葉が最初に使われた魚はウナギでした。宝暦年間から天明年間(1751年~1789年)にかけて江戸でウナギの蒲焼きが人気となり、品川や深川で獲れたウナギを江戸前のウナギと呼びました。江戸前のウナギに対する言葉は旅ウナギ、他所で獲れたという意味です。それから握り寿司の普及に伴い、江戸前で獲れた海産物全般を江戸前というようになっていきました。
江戸は河口を意味する言葉
江戸の「江」は川を意味する言葉です。戸はその入り口です。つまりは河口を意味します。ここに城を最初に築いたのは室町時代の武将、太田道灌(どうかん)で長禄元年(1457年)のことでした。当時は城といっても小規模で簡素なものであったといわれています。そして天正18年(1590年)、徳川家康が入城し、慶長8年(1603年)に江戸で幕府を開いてから城の本格的な拡張が始まりました。
家康が江戸城へ入城したころは、現在の田町、日比谷、霞ヶ関、新橋を結んだ線が海岸線で江戸城のすぐ下まで日比谷入江が入り込んでいたといわれています。家康は最初に日比谷入江を埋め立て、征夷大将軍となってからは次々と海岸を埋め立てていきました。佃島は関西の摂津国佃村と大和田(おおわだ)村から移住した漁師たちが造成した人工島で、もともとが隅田川の河口に点在する干潟でした。
東京湾全体をさして江戸前という場合もありますが、本来の江戸前は江戸城の前に広がる海でした。現代では城の代わりに高層ビル群が建ち並びます。
江戸のまちづくりの変遷
(資料:国土交通省関東地方整備局東京港湾事務所「江戸湊と東京港」)
江戸期最初の水路工事
(1590~1592)旧石神井川河口から江戸城直下まで舟が入れるようにと、道三掘・小名木川開削が計画、実施された。関東最大の製塩地・行徳から、塩を江戸に直送するためであった。
日比谷入江埋立と櫛形の埠頭建設
(1593~1614)日比谷入江を埋め立て、江戸湊の中心を日本橋とした。また、江戸前島の東岸の材木町に櫛形の埠頭が造られ、日比谷入江の埋立地に運河が整備され始めた。
埋立地の拡大
(1615~1629)材木町の対岸の埋立地、霊岸島をはじめ、現在の中央区の東部地区には埋立地が激増し、それぞれが運河によって取り囲まれて、舟運の基地である河岸を形成。この地域が江戸経済を支えた。
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