江戸前にはクジラも現れていた
現在、東京湾へアザラシが迷い込み、ニュースとなることがあります。ところが江戸時代にはアザラシどころかクジラもしばしば迷い込んでいたようです。享保年間、寛政年間、文政年間など品川沖や深川沖にクジラがいたという記録が残っています。おそらく、エサを追いかけているうちに湾奥深くへと迷い込んだようです。江戸前は今と違って魚介類が豊富にいたのです。
漁業資源が豊富であれば、漁業で生計を立てる人たちもたくさんいたはずです。東京都中央区の日本橋は、日本の道路の起点です。そして日本橋の袂(たもと)には「日本橋魚市場記念碑」が建っています。享保年間(1716年~1735年)の江戸の街には8カ所の魚市場があったといわれ、その代表が日本橋にあった魚市場でした。幕府に魚を納めるため、関西から佃島へ移住した漁師が余った魚を販売したのが始まりで、やがて専門に販売を行うものが現れて魚市場が形成されていったとされています。そして大正12年の関東大震災によって築地に移転するまで魚河岸として繁栄を続けてきました。
江戸時代の魚河岸は日本橋から江戸橋にかけての日本橋川沿いのほか、本船町、小田原町、安針町(現:室町一丁目、本町一丁目)の広い範囲で開かれていました。その中でも一番の賑わいを見せていたのが日本橋川沿いの魚河岸でした。日本橋の袂で開かれていた魚河岸は1日で千両もの取引があったといわれ、江戸の中で最も活気のある場所の一つとされていました。
上は「日本橋魚市繁栄図」(出典:国立国会図書館貴重書画像データベース)
日本橋にあった魚河岸は大正12年に築地へ移転し東京都中央卸売市場となり、今では世界中から様々な魚介類が集まってきます。
現在の江戸前の範囲
江戸前という言葉は時代の変化とともに、ウナギであったり握り寿司の意味になったり、江戸風といった食文化を指したり、あるいは江戸前の「前」を腕前と同じ意味に解して使われたりしてきました。それでも、江戸の前で獲れる魚といった意味は失われていません。問題は江戸前の範囲です。本来の江戸前は江戸城あるいは江戸の町のすぐ沖を指していました。現在の品川、大森辺りです。もう少し範囲を広げても千葉県の浦安市辺りまででしょう。
品川や大森近辺だけを江戸前として限定して使用するのであれば、この言葉はとっくに死語となっていたはずです。ところが江戸前という言葉は現代でも生きています。江戸前の範囲を東京湾にまで広げたからです。東京湾といっても東京23区と同じくらいの広さがあります。そこで神奈川県の三浦半島と千葉県の富津岬を結んだ線の内側を内湾、そこから南側を外湾という言い方があります。そうなると江戸時代は江戸前とは呼ばれなかった三浦半島付近で獲れるイセエビやアワビも江戸前に含まれてきます。その一方で魚たちは内湾と外湾とを自由に行き来します。実際の漁も内湾と外湾の行き来があります。そこで水産庁は2005年に江戸前を東京湾全体で獲れた魚介類と定義をしました。
こうなると、かつては江戸前と呼ばれなかった魚介類も江戸前に含まれてしまうため、抵抗を感じる人も多いようです。一般には内湾で獲れた魚介類を狭義の江戸前、東京湾全体で獲れた魚介類を広義の江戸前としているようです。
東京湾の漁獲量は1960年代に19万トンあったのが現在では約10分の1の2万トン前後しかありません。変化したのは漁獲量だけではありません。イシガレイ、スズキ、マアナゴ、シャコなどは江戸前を代表する魚だとされています。そのうち江戸前のカレイはイシガレイを指していたのが、今ではマコガレイが中心です。こうした変化は水質の悪化と産卵に適した浅い砂地の減少などが原因かもしれません。
江戸川の河口にある浦安市は東京都に隣接していながら海と川に囲まれ、昭和40年頃までは漁村風景がたくさん見られました。今でも一部に漁師町であった頃の面影が残っています。
マハゼの中には夏から秋にかけて渚で過ごすものと、川の中流へ溯るものがいます。海と川で生活できるため、東京湾でも生き残ることができたのではないかといわれています。
イシガレイは湾最奥部の河口沖合の浅場で生まれ、稚魚は塩分の少ない水深数mで底が砂地になっているところで育ちます。成長するにつれて水深の深いところへ移動します。
大森は、かつては漁業で栄えたところです。羽田沖では今も漁業が行われています。かつてはアサクサノリの養殖も盛んに行われていました。
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