工事は難工事となりました。堤をつくる銚子口の流れは速く、つくりかけてもすぐに流されるという連続でした。そこで呼び寄せたのが河内国(現大阪府)の勘九郎という土木工事に優れた人物でした。
最初にしっかりとした土台をつくることができれば、後はその上に土を積み上げていけばいいはずです。この土台をつくるのに用いられたのが棚築(たなづき)という方法でした。これは塞き止める川の上に木の橋を架けその上に木の枝などの燃えやすいものを置き、さらにその上に大量の石や土を乗せます。そして橋に火を付ければ大量の土砂が一度に川の中に落ちて川はせき止められます。こうして幅約21m、長さ約180m、高さ約26mの堤が築かれました。堤長が180m(百間)あるところから百間堤、あるいは河内屋堤と呼ばれています。現在の堤はもともと山であった部分を整備しているため724.1mとなっていますが、池の規模はつくられたときとほぼ同じです。
堤とともに必要なのが水門です。入鹿池の水深は平均17mです。水田には表面の暖まった水から流すようにしなければ稲の生育に悪影響を与えかねません。そのため杁(いり)といわれる水門がつくられました。杁は根樋(ねひ)と立樋(たてひ)からつくられます。根樋は池の水を堤の外へ放出するために地下に埋め込まれます。立樋は池の表面に近い水から順に流すような工夫がしてあります。池の側の堤に沿って斜めに取り付けられた樋に、いくつもの穴をあけて戸板などで塞いでおき、水が必要なときは上の穴から順にろくろで引き上げて、開けていくようにしたものです。現在は真鍮(しんちゅう)でつくられた取水口があります。この水は堤の下の幼川の源頭部となっています。 |