綾瀬川は中川の支流の一つとなっていますが、元々は荒川の本流でした。しかし流路の変動が激しく、荒川の主流が元荒川へと移っていくに従い、綾瀬川は荒川の派川となっていきました。ところが綾瀬川や中川の辺りの標高は10m以下のところが多く、河床勾配は5,000分の1しかありません。しかも蛇行を繰り返しながら流れていたため、大雨が降ると荒川から大量の水が入り込み、周辺地域は水害に悩まされていました。そこで、伊那備前守忠次によって慶長(1596~1615年)の頃、堤(備前堤)が築かれ、荒川の水が綾瀬川へ入らないように切り離され、さらに綾瀬川の水は元荒川へ導水するように改修されました。
荒川から切り離されたことによって、綾瀬川の主な水源は農業用水となりました。また、周辺からの湧水も集めていたと思われます。どこまでものっぺりとした平坦な地形に見える関東平野ですが、大宮の辺りは台地上になっています。その台地に降った雨が綾瀬川の流域周辺で湧き出ていたのです。
埼玉県の魚は元荒川の上流部にすむトゲウオ科のムサシトミヨです。トゲウオ科の淡水魚がすんでいるのは湧水のある場所です。こうした魚が県魚になっていることから、この辺りにも湧水が豊富にあったと考えられます。
大雨が降るたびに流路を変えていた綾瀬川の流れが安定することにより、田畑は水害から免れるようになり、新田開発が進みました。当然、綾瀬川は農業用水として重要な役割を果たすようになり、流域は江戸の町にとって重要な食料を供給する穀倉地帯として発展していきます。穀物を江戸方面へ運搬する交通手段として綾瀬川を利用した舟運も行なわれるようになっていきます。一方、人口密集地帯である江戸の町からは田畑の肥料となる金肥(人糞)などが舟で運ばれました。 |