水の話
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歴史がつくり出した汚れやすい構造

15年間連続 ワーストワン

 江戸時代の綾瀬川はたびたび改修工事が行なわれていました。近代になってからも河川改修が行なわれ、かつての蛇行していた川も、昭和の初期までに直線的な流れとなりました。その頃まで綾瀬川の川底には藻が繁り、コイやフナなどの漁業も盛んでした。ただしこの藻はカミソリモと呼ばれ、泳ぐと体中が傷だらけになるため、親たちは川遊びに出かける子どもを心配したといわれています。
昭和30年代の初め頃までの綾瀬川は子どもたちが水遊びに興じ、メダカやフナをはじめシジミ、ナマズ、ウナギなども多く、川魚を食べさせる店もたくさんありました。そこで子どもたちはナマズやウナギを獲り、そうした店へ売りいくことでお小遣い稼ぎをしていました。それが昭和30年代の中頃から川の汚れが目立つようになり、国土交通省が行なっている国が管理する一級河川の調査では、昭和55年(1980年)から平成6年(1994年)までの15年間連続して全国一汚れた川となってしまいました。この頃の綾瀬川はBODが20~30mg/Lという値を示していました。ただし、ワーストワンとはいってもあくまでも一級河川のみを対象とした調査です。二級河川まで含めれば全国には綾瀬川よりも汚れのひどい河川が他にもありました。
国土交通省の「全国一級河川の水質現況」という調査が始められたのは昭和33年(1958年)からです。その時点での調査箇所は全国の一級河川のうち8水系54地点です。その後今日まで調査地点を増やし、現在では全国109水系1,102地点となっています。
昭和40年代は日本全国の川の汚れが人々の関心を呼び起こしていた時期です。その当時、BODの平均値が50mg/Lを超え、水質改善が急務であるとされた地点は全調査地点の27%も占めていました。綾瀬川の水質も、昭和30年代の後半に20mg/Lを超え昭和46年(1971年)頃は100mg/L近くに達したことがありました。


畷(なわて)橋付近の綾瀬川
国土交通省の水質調査地点の一つになっている畷(なわて)橋付近の綾瀬川。自然な川の中流域といった雰囲気があります。


冬場になると水源が農業用水から生活排水へ

 昭和30年代から40年代にかけて公害が社会的な問題となっていました。当時は工場から排出される有害物質による大気や水の汚染による、住民への健康被害が大きく取り上げられていました。そして公害基本法などが国会で成立し、企業も公害対策に取り組みました。その結果、大気や水の汚れはかなりの改善が見られました。
地域住民も地域の川や池などの汚れに対する関心を持つようになり、ゴミを捨てないようになりました。そしてある程度は水の汚れが改善されたのですが、河川や湖沼、さらには湾などの海域の水質改善はなかなか進みませんでした。理由の一つが生活排水でした。
綾瀬川の水質も昭和30年代後半に比べれば大幅に改善されたのですが、他の河川の方が改善の進捗(しんちょく)が速く、結果的に全国ワーストワンになってしまったのでした。
なぜ全国の他の河川に比べて改善が遅れたのでしょうか。理由の一つは、江戸時代に備前堤で切り離され、源流のない川となり、田んぼの落とし水を主な水源とする川となっていたことがあげられます。
綾瀬川にはもう一つの水源がありました。生活排水です。綾瀬川は農業用水路としての役割を持っています。冬になると農業用に使われる水は少なくなります。水源を田んぼの水に大きく依存しているため、農閑期になると当然、川の水量は減少します。田んぼからの水が少なくなれば、川は生活排水だけが流れることになってしまいます。
しかも日本が高度成長をしていた時代です。流域では田畑が宅地に変わり、中小工場も進出してきました。綾瀬川に流入する生活排水や工場廃水の量はさらに増え、一方で、元々の水源であった農業用の水はさらに減っていきました。綾瀬川は勾配が緩いので、海の干満の影響を受けやすく、河川水が滞留しやすいため、水質をさらに悪化させていったのです。


田んぼからの排水 田んぼからの排水
綾瀬川へ流れ込む田んぼからの排水。農閑期になるとこうした水はなくなります。


源流の起点   源流部近くの綾瀬川
源流の起点
綾瀬川には源流の起点とされる場所が2カ所あります。自然の自己水源を持たない川のため、これらの起点は河川管理上の起点とされています。 源流部近くの綾瀬川。水量はわずかで、水も濁っているようには見えません。しかもよく見ると、小さな魚もいます。


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