水の話
メニュー1 2 3 4 5 6次のページ
 
都市の排水

日本の排水路は開渠が基本

 近江八幡で背割排水がつくられたのとほぼ同じ時期につくられ、今も現役として使われている下水道が大阪にあります。大阪の町は豊臣秀吉が1583年(天正11年)からはじめた大坂城築城にはじまります。このとき、近江八幡と同じような背割下水(背割排水)が計画され、1598年(慶長3年)に整備されました。規模は近江八幡のものよりも大きく、幅の大きいところでは1.8メートルから3.6メートルにも達しています。当初は素掘りの開渠でしたが、後に石垣が施され、石の蓋が取り付けられたところもあります。
この下水は豊臣秀吉にちなんで太閤下水と呼ばれています。江戸時代を通じて拡張、整備が続けられ、現在でもその一部が現役の下水道として使用されています。もちろん太閤下水を通った排水は、現在では下水処理場へ流されています。



トイレの水洗化でつくられるようになった下水処理施設

 日本の下水はし尿を除いた生活雑排水が中心で、ヨーロッパのようにし尿も一緒に流すことはありませんでした。見た目もそれほど汚れているわけでもなく、悪臭をまき散らすほどでもないため、開渠の排水路でも十分であったのでしょう。見方を変えればヨーロッパではし尿も一緒に流したため、暗渠にする必要があったのです。
明治になると日本にも近代的下水道がつくられるようになりますが、下水処理施設のある下水道は東京、大阪、名古屋など一部の大都市に限られ、他の下水道の多くは未処理のまま河川などに放流されていました。し尿は田畑の肥料として需要があったことと、水洗トイレが未発達であったことで、生活雑排水中心であったことも大きな理由になっていたようです。1960年代頃から有機肥料から化学肥料になり、し尿の処理が必要になってきたことも一因として水洗トイレが一般家庭へ徐々に普及しはじめます。



下水によって姿を消していった中小河川

 日本で公害という言葉が盛んに使われ、社会問題化したのは1960年代後半からです。この頃から各地の河川や湖沼の水質もどんどん悪化していきました。当時、特に都市部を流れる河川には産業系や生活系の排水が流されました。ゴミが川へ捨てられることもありました。川はいろいろな生き物たちが生息する場所ではなく、ゴミ捨て場になってしまったのです。「水に流す」という諺があるように、水に流してしまえばそれで終わりという考えがあったのです。
一方で「三尺下れば水きよし」という諺がありますが、これは汚れた水が川に流れ込んだとしても、すぐに水が浄化されるという意味です。三尺は約90cmです。もちろんこれだけの距離を流れるだけで水が浄化されるというわけではありません。
川が水を浄化するのは希釈、沈殿、撹拌などの作用があるからです。常に流れのある川であれば、下流へ行くほど水はきれいになっていきます。この川の浄化作用の中で重要な役割が撹拌です。撹拌によって水の中に空気が取り込まれることで、水中の微生物が活発に活動します。水中の微生物も他の生物と同じように、呼吸してエサを食べなければなりません。このエサこそが水の汚れの原因となっている有機物です。
排水路へ生活雑排水を流しても、自然の浄化作用が働いているうちはそれほど水が汚れることはありません。ところが自然の浄化能力以上の汚れが流入すると水はどんどんと汚れていってしまい、下水道が建設されるようになりました。その一方で、下水道の普及によって、都市部から中小河川などの水環境が姿を消していきました。


小川
炊事や洗濯などに使われた水は村や町の中を流れる小川を経て、最後はより大きな川へと流れます。人口の増加や食生活の変化などによって排水の汚れがひどくなれば、川の水も汚れていきます。


排水路
川の汚れがひどくなり、道路を広げるとき、真っ先におこなわれたのが川にふたをする事でした。そして都市部からはどんどん小さな川が姿を消していきました。


メニュー1 2 3 4 5 6次のページ