富士川の下流部は江戸時代の初め頃まで1本の流れではなく、川は幾筋にも分かれ、洪水の度に流れを変えていました。そこで信玄がつくったのが雁堤でした。
まず「出し」と呼ぶ何本もの水制をつくり水の勢いを弱めます。勢いの弱まった流れを九十間堤防にぶつけて川の中心部へ向かわせます。そして雁堤本堤の前には聖牛(ひじりうし・せいぎゅう)を置き、水の力を弱め、遊水池機能を持たせた区域へと水を導き水の流れを弱めました。こうして堤防の決壊や川の氾濫を防ぐと共に、川の流れを1本化しました。
雁堤も連続した直線的な堤防ではありません。山の上から眺めると、あたかも雁の一群が飛んでいるような形をしているところから雁堤と呼ばれています。水流を弱める聖牛や水制といった伝統的な治水工法は現在も数多く残されています。
いまでも富士川の河口の幅は日本一の1,950mを誇ります。広い河口域からは遮るものがないため、富士山の雄大な姿を眺められます。また多くのダムがつくられ、流量が調整され、砂防工事によって河川への土砂流出が押さえられています。そのため、昔のように、洪水の危険にさらされることは少なくなりました。ところが富士川河口の沿岸部へ土砂が流出されなくなると、浸食された海岸線が後退するというあらたな問題が発生しました。 |