雨水や汚水の行く先

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汚水処理の歴史

雨上がりの後、庭や道の窪みなどに溜まった水は澄んでいます。かつて水の少ない離などでは雨水をためて生活用水にしていたところがあります。ところが都市に降った雨水は下水となってしまいます。

台所や風呂場も水環境の一部

 雨や雪となって地表へ降った水は川や地下水、氷河として最終的には海へと流れ下り、ふたたび蒸発して雨や雪になり地表へ戻るという循環を繰り返します。自然の水循環の過程で、人は農業をはじめ、さまざまな産業や日々の暮らしの中に水を取り入れて使用し、豊かな水循環をつくり出してきました。
 水環境というと、多くの人にとっては河川や湖沼、海辺といった自然とかかわりの深い環境を思い浮かべることが多いようです。しかし家の中であっても、さまざまな形で水を使用しています。日々の暮らしそのものが水環境の中にあるのです。川や海を汚さないようにするには、家庭での水の使い方も大きく関係してきます。こうした水環境を考えるため、人が使った水がどのように処理されるのかを知ることも大切です。

家庭内で使われる水も最終的には川や海へ放流されますが、どこでどのように処理されるのかといったことに対しての関心は高くはないようです。

幾通りもある使用した水の行方

 料理、洗濯、洗顔、風呂、掃除、トイレ、洗車、植木への遣り水など、水は毎日の暮らしに欠かせません。最近では夏の暑さを和らげるため道などへの撒き水もおこなわれています。また、風呂の残り水、野菜を洗った後の水などを掃除、洗車、庭木の遣り水などに再利用する人も増えています。どのような形で使われるにしても、これらの水は基本的には上水道という一つの源からきています。使用後の水の多くは排水口を通って排出されますが、その先はいくつもの経路に分かれています。
 下水道が普及している地域であれば、屋内で使われた水はそのまま下水道へ放流されます。下水道が未整備の地域では浄化槽で処理される場合と、トイレ排水だけを処理して、残りの台所、風呂、洗顔などに使われた生活雑排水はいわゆる垂れ流しにされることがあります。
 洗車や植木への遣り水、道路への撒き水などの屋外で使われた水は地中へ染み込む場合もあれば側溝へ流れ込むこともあります。そして側溝へ流れ込んだ水もそのまま河川などへ流れていく場合と、下水道に入り下水処理場へ流れていく場合があるのです。

背割排水路というのは、家と家の間の背を割るようにつくられた排水路のことです。

使った後の水はどこへ行くのか

 日本の下水道普及率は約76%です。しかも、人口の多い大都市に限ればほぼ100%の普及率となっています。大都市であれば下水道が当たり前となっています。蛇口をひねるだけで、いつでも好きなだけ使うことができる上水がどこからきているのかについてはかなりの人が関心を持っています。もしも水源地域が汚れたり、水不足になると毎日の暮らしや健康に大きな影響を与えるからです。そして下水道へ放流された汚水は下水処理場で処理され、川や海へ放流されることも誰もが知っています。
 ところが特に大都市に住んでいると、自分の家から排出された台所、浴室、洗面所、トイレの排水口から先の生活排水がどういった経路を辿り、どこの下水処理場で処理され、最終的にどこの河川へ放流されるのかまで関心を持っている人はほとんどいないといってもいいでしょう。

紀元前から都市にあった下水

 日本の下水道普及率に浄化槽などを加えた汚水処理人口普及率は約88%です。下水道や浄化槽は汚水を処理することを意味しています。そして下水道を単に下水と表現することもあります。ところが下水処理には、汚水を浄化することを前提にしている場合もあれば、人の住んでいる場所から離れたところへ運び去ることを意味する場合もあります。
 紀元前3,000年頃から栄えた世界最古とされる古代メソポタミア文明の都市には、すでに生活排水を流す下水道がつくられていました。また、紀元前2,000年を中心に繁栄した古代インドの都市モヘンジョダロでもレンガづくりの下水道がつくられ、その後も、古代エジプトや古代ローマで下水道がつくられています。日本でも弥生時代の大規模な集落跡から排水溝が見つかっています。
 ところで弥生時代の排水溝は下水道とは呼ばれていません。古代文明都市の下水道とはどこが違うのでしょうか。生活で使用した水を流すという機能の点では同じですが、石やレンガなどの構造物としてつくられているのか、単なる排水溝として掘られたものかという違いが大きいようです。そしてもう一つの違いが古代文明都市につくられた下水道の多くはトイレにつながり、し尿を流すことができるようになっていたことです。
 日本で最初につくられた下水道とされているのは、豊臣秀吉が大坂城を築城した時に城下町と一緒に整備した「太閤下水」とか「背割下水」と呼ばれているものです。太閤下水は民家の裏手につくられた生活雑排水を流すための排水溝で、東横堀川や西横堀川を経て大川へ放流されました。
 背割下水はあくまでも生活雑排水だけを放流するもので、し尿は放流されていません。日本でし尿が下水に流されるようになるのは、ずっと後の時代になってからです。
 つまり下水道とは、単に排水機能を持っているだけではなく、計画的につくられた堅牢な構造物で、時にはし尿も放流できるようになっているものを指しているようです。

太閤下水は大坂城築城時に原型がつくられた下水溝で、後の改良を経て、総延長約20kmが現在も現役の下水道施設として使用されています。平成17年には現存している太閤下水のうち約7kmが大阪市文化財に史跡として指定されました。(写真提供:大阪市建設局)

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