雨水や汚水の行く先

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汚水処理の歴史

下水へ流されなくなったし尿

 人が生活をしていくには水が必要です。古代でも文明が発達したのは大河の畔(ほとり)でした。現在でも世界の大都市の多くは近くに大きな川が流れています。
 水を容易に得られるということは、水がたまりやすい場所ということにもなってきます。一方、使った水はどこかへ捨てるか流すなどしなければなりません。人が少なければ住居の周囲に捨てても、地下へ染み込んだり蒸発したり、あるいは土地の低い方へ流れてくれます。ところが人口が増えるに従い使用する水の量は増加します。さらに人口が集中して都市が形成されてくると、土地の低い場所にも人が住むようになり、汚水や雨水の排水が課題となってきます。そこで住居の発達や都市の形成にあわせ、排水溝も整備されていきました。古代文明の諸都市でも、下水道は雨水の排水を目的の一つとしてもっていました。
 古代ローマ帝国が勢力を拡大していくにつれ、各地に下水道もつくられていきました。紀元前3世紀末から5世紀後半のころには現在のパリ市内を流れるセーヌ川の左岸に下水道があったとされています。
 ところが5世紀に西ローマ帝国が滅ぶと共に、トイレ文化も衰退していきました。その後、中世のパリではある程度の下水道がつくられていたようですが、それらの下水道は汚泥が堆積し悪臭を放っていたといわれています。
 一方、パリの共同住宅の多くは屋内にトイレが設置されていませんでした。住民は屋外で用を足したり、おまるや溲瓶(しびん)を使用し、中身は道路へ捨てていました。そして道路の真ん中に凹(くぼみ)みが付けられ、その凹みを通ってし尿などの生活排水はセーヌ川へ流れるようになっていました。イギリスなど、他のヨーロッパ諸国でも似た様な状況のようでした。

花の都パリを象徴するセーヌ川も、かつて大量の生活排水が流れ込んでいました。

古代ローマの都市ではすでに下水道が整備されていました。

し尿の処分に困っていた中世のヨーロッパ

 ヨーロッパでは人口が集中する都市の衛生状態が悪化することでペストやコレラなどの伝染病がしばしば大流行しました。そこで19世紀になってようやく下水道の建設がはじまります。おかげで街は衛生的になり、悪臭も減っていきます。しかし、下水道といっても、未処理のまま河川へ放流するだけでした。
 明治時代になって日本を訪れた多くのヨーロッパ人が日本の都市の清潔さを褒め称えています。その理由の一つがし尿の問題でした。日本では都市部から近隣の農村部へし尿が運び出されるシステムが整っていたからです。中世のヨーロッパでも、し尿の一部は畑の肥料として使われていたようですが、日本ではし尿を農家が金品を払って引き取っていました。そのためし尿は金肥とも呼ばれていました。
 日本はヨーロッパに比べ年間降水量が多いことも、町の中の汚れを流し去り、清潔さを保つために役立っていたと思われます。入浴回数も現代人に比べはるかに少なく、浴室のある家はわずかしかありませんでした。さらに、ヨーロッパのような脂分の多い肉食を多く摂る食生活との違いも、台所から出る汚れが少なかった理由の一つとして考えられます。こうした要因がいくつも重なり、江戸の町などはヨーロッパの大都市のような深刻な水の汚れに悩まされることはなかったようです。それでも、江戸時代の後期になると、人口の増加などで都市部を流れる川の汚れが目立ちはじめていたとされます。

下水の目的は汚水と雨水の排除

 日本で本格的な下水道がつくられるようになったのは横浜や神戸に外国人居留地がつくられた明治時代になってからです。横浜では明治2年(1869年)からイギリス人の設計で道路の下に土管を埋設した下水工事がおこわれました。神戸では明治5年(1872年)頃にレンガづくりの卵形と円形の下水道がつくられました。
 さらに東京をはじめとした大都市の人口が増加し、加えて海外からもたらされるコレラなどの伝染病が流行するようになりました。明治10年(1877年)に日本各地でコレラが流行し、明治15年(1882年)には東京で発生したコレラによって5,000名以上の死者を出しました。そこで衛生の確保ということから明治17年(1884年)に東京の神田下水が日本人の手による最初の近代下水道としてつくられました。しかし、国庫補助金の打ち切りなど財政上の理由で、わずか2か年、延長約4km程度の工事で終了しました。本管はレンガ造りの卵形をしており、現在もなお815mほどの管渠(かんきょ)が機能し続けています。

横浜都市発展記念館(旧横浜市外電話局)の中庭に展示されている卵形下水道管。平成13年(2001年)に神奈川県庁前の日本大通りから出土したもので、明治10年代に日本大通りと海岸通りが交差する位置に築造された.瓦造下水道マンホールに接続されていました。枕木を敷き並べた上にコンクリートを巻いて敷設されていました。(写真提供:郷土文化財コレクション)

汚物掃除法と下水道法

 コレラやペストの大流行によって、ごみやし尿の処理が問題となり明治33年(1900年)に汚物掃除法と下水道法(旧下水道法)が制定されます。汚物掃除法では汚物を「塵芥(じんかい)汚泥汚水および糞尿とす」と定義しました。ここで注目したいのは「糞尿」をわざわざ汚物として定義していることです。それまでのし尿は汚物というよりは大切な肥料であり、いわゆる売買の対象となる商品であったということです。また、汚物掃除法によってごみの処理は各市町村などが責任を持つことになりましたが、し尿については市町村の処理義務からはずされていました。
 旧下水道法では「下水道と称するは土地の清潔を保持する為汚水雨水疎通の目的を以て敷設する排水管その他の排水線路及その附属装置をいう」としました。つまり、下水道で排水するのは生活雑排水と雨水で、し尿は対象にはなっていなかったのです。当時、生活雑排水の放流先は側溝がほとんどでした。汚水が滞留するような場所もありました。雨が降れば側溝から汚水が道に溢れ出すこともありました。こうしたことも伝染病発生の原因となっていました。

神田下水は、明治17年(1884)から18年(1885)にかけて建設され、その一部が今も、下水道施設としての機能を果たし続けている我が国初の近代下水道です。管は卵形管といい、鳥の卵を逆さにした形をしています。特徴としては、管内に流れる下水の量が少ないときにも、流速が確保できるため、ゴミが堆積しない合理的な断面をしています。 (写真提供:東京都下水道局)

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