復活する生態系

水の話 No.164 特集 復活する生態系 環境未来都市をめざす北九州市

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公害の街から環境未来都市へ

市民、行政、企業が一体となった水質改善の取組

 国が1969年(昭和44年)におこなった調査によると、洞海湾の汚れの大部分は工場廃水でした。しかも工場廃水にはシアン、フェノールなどの有害物質も高濃度に含まれていました。船のスクリューが溶けるという事態さえ起きました。大気汚染対策とともに、こうした状態を何とか改善しようと最初に動き出したのは婦人会を中心とした市民でした。
 1970年(昭和45年)には国民の健康の保護と生活環境の保全を目的に、水質二法に代り水質汚濁防止法が制定されました。これによって工場や事業場からの公共用水域への排水などの規制、生活排水対策が強化されました。
 この法律の排水基準はシアンやカドミウムといった有害物質に関する健康項目と、BOD、COD、pH、SS、窒素含有量、りん含有量、大腸菌群数といった生活環境項目の二つに分けられます。この時に市内河川や洞海湾、響灘など周辺海域に工場廃水を排出する規制対象となった企業は、公害防止の装置を導入するなど積極的に動き出します。
 北九州市は1970年(昭和45年)に北九州市公害防止条例を制定し、1972年(昭和47年)には北九州地域公害防止計画をつくります。こうして市民、行政、企業が一体となり水質や大気汚染への取り組みがはじまりました。
 さらに1973年(昭和48年)には福岡県がCODや浮遊物質量、有害物質について水質汚濁防止法よりもさらに厳しい上乗せ基準をつくりました。企業も工場にさまざまな廃水処理施設を設置するなどし、洞海湾の水質改善に向け努力を続けました。例えば水を大量に使用する製鉄所は使用した水を処理し、再利用するシステムを採り入れ、排水量そのものを大幅に減らしました。
 工場に対する規制だけではなく、家庭排水への対策もとられました。北九州市で下水道の供用がはじまったのは1963年(昭和38年)で、この時に洞海湾の奥に位置する皇后崎下水処理場が操業を開始しました。そして今では下水道普及率は99.8%に達し、全国の大都市と比較すると、東京都、大阪市に次いで第3位の普及率となっています。

北九州市で最初にできた皇后崎下水処理場。ここで三次処理した水を2kmほど離れた洞海ビオパークまで導いています。

かつて、魚のすめない海といわれた洞海湾も、すっかりきれいになりました。

湾内からの徹底した汚泥除去

 水質の改善を図ったとしても湾の底にはたくさんの汚泥が堆積しています。汚泥の中には有害物質も含まれています。魚介類が水銀やカドミウムなどに汚染されたならば、それを食べた人に健康被害が生じる恐れがあります。ところが皮肉にも洞海湾では魚介類が生息できなくなっていたため、有害物質に汚染された魚介類を人が食べるという心配はありませんでした。
 しかし有害物質を含んだ汚泥が除去されなければ、水質のきれいになった洞海湾へ魚が戻った時、汚染される可能性がありました。洞海湾の底の汚染された汚泥の厚さは最大で4m、堆積量は480万m3と見積られました。
 汚泥除去のための浚渫が1974年(昭和49年)から1975年(50年)にかけておこなわれました。浚渫時に汚泥が拡散しないよう現場を囲うなどの注意が払われました。汚泥は洞海湾の一部を締切護岸で囲い、海へ流出しないようにして埋立て処分されることになりました。こうしてつくられた埋立地は工場の資材置場などになりました。

若戸大橋の近くにある漁港。ここの漁船の多くは響灘でイカ漁をおこなっています。

いまのコンビナートには、空を七色の煙で覆い、海を赤茶色に染めていた時のような雰囲気は感じられません。

甦った海

 漁獲高がゼロにまでなっていた洞海湾で、1983年(昭和58年)にクルマエビ漁が復活しました。洞海湾に戻ってきたのはクルマエビだけではありません。海藻をはじめカニ、貝、魚など多くの魚介類も戻ってきたのです。
 今では100種類を越える魚介類が確認されています。さらにアオサギなどの水辺の鳥も姿を現すようになりました。こうして北九州市は見事に公害を克服した街として注目されるようになりました。

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