水の話
 
神々の遊ぶ空間から人々が集う空間へ
庭とは一体どのような空間をいうのでしょうか。
一言で表現することは難しそうです。かつて、農家では脱穀等の作業をしたり、収穫物を天日で乾燥させるための空間も庭と呼んでいました。このように敷地内で建物も何もない空間部分を指す場合もあれば、木や花で美しく飾った空間を指す場合もあります。
その一方で、石庭のように石と砂だけで構成されている庭もあります。

小さなスペースでも庭に変える日本人
 住まいに対する価値観や住まい方が欧米風に変化したとはいえ、どんなに小さな空間であっても、日本人は鉢を置くなどして花や木を楽しみます。
アメリカ人のエドワード.S.モースが、日本の住まいについて詳しく書いた「日本人の住まい」という本があります。書かれたのは100年以上も前の明治18年(1885)です。そこには日本の都市や村落の外見から始まり、家屋の構造や庭園について、驚きと称賛が綴られています。日本人の作庭技術については、アメリカ人ならばゴミ置き場にしか利用しないような小さなスペースも、いとも簡単に目を楽しませる場所に変えてしまうと述べています。欧米人の眼から見ると、日本人は昔から庭作りについての特別な思想や技術を持っていたようです。
日本の庭という場合、大抵は日本庭園のことを指しています。有名な日本庭園としては、金沢の兼六園、水戸の偕楽園、岡山の後楽園、京都の西芳寺や竜安寺などの枯山水などが思い起こされます。これらの庭はいずれもかつての大名屋敷や大きなお寺などに作られた庭園です。日本庭園といっても、石組みを配したり樹木の枝ぶりなどに共通している部分もあれば、水を使わず石だけで水を表現する枯山水の庭があるなど、かなり雰囲気の異なる面ももっています。現代では、公共的な施設でもない限り、広大な敷地の日本庭園を作ることは難しくなっています。しかし、一般住宅の庭に、かつての日本庭園と共通する部分はかなりみられます。
虎渓山永保寺
夢窓国師(疎石)によって、正和3年(1314)に建立されたといわれる臨済宗南禅寺派の虎渓山永保寺(岐阜県多治見市)の庭。夢窓国師は枯山水の庭を最初に確立したといわれる人物です。自然の地形を利用して作られた庭は、本堂の前に臥竜池を配し、堂の西側の岩盤上部からは水を引いて滝を落としています。岩を流れ落ちる水は、自然の滝そのものといった雰囲気です。

風景

明治になって大きく変化した日本の庭
 日本では、明治維新という大きな変化によって、それまでとは違った庭が作られるようになってきました。江戸時代まで、庭を所有できたのは大名のような特権階級に属する人たちや、政治体制のなかに組み込まれていた社寺などでした。
慶応3年(1867)、幕府は大政奉還をします。同時に徳川家直属の旗本や御家人も屋敷地を新政府に返上します。国元に帰った大名の江戸屋敷の多くは、庭とともに取り壊されました。また、明治元年(1868)、新政府は神仏混淆(こんこう)禁止の布令を出します。それまでの日本は神道と仏教は混在していたのですが、両者の分離をはかったのです。これが排仏と混同されて、全国で排仏毀釈(はいぶつきしゃく)運動が起り、多くの寺が破壊されました。さらに明治4年(1871)、政府は寺の勢力を抑えるため、寺の所有地の多くを没収します。こうして経済的に苦しくなった多くの寺からも庭園が消えていきました。
そうした中、明治6年(1873)に政府は太政官布告を出し、旧大名屋敷や社寺境内の庭園、名勝地を「公園」として一般に公開します。しかし、これは荒れて消滅していく名園を保存するというよりは、欧米の都市を見習い、新たな都市建設のために広大な敷地の大名屋敷や寺社境内を利用したに過ぎません。事実、明治になってから作られた庭園の中には花壇、噴水、芝生などを幾何学的に組み合わせた欧米の影響を受けたものもたくさん見られます。
定勝禅寺
定勝禅寺(長野県大桑村)にある自然石を使った庭園。この庭は江戸時代初期に作られたものですが、こうした庭を眺めていると、庭の起源は神々の遊ぶ空間であったのではないのかと思われてきます。


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