水の話
 
自然と人とが対等であった庭

庭に水を求める日本人の心
 かつて、庭作りの基本は自然の風景をいかに美しく表現するかということに関心が置かれていました。各地の名所といわれる場所を細かく観察し、川の流れ、滝などを、様々な形で庭の中に再現してきたのです。
池、遣水、滝といったものも石とともに庭を構成する重要な要素でした。いまでも池は庭を楽しむために作られます。ところが、庭に水があるというだけで小鳥や虫たちが集まってきます。もちろん、庭の歴史から見れば生き物たちを集めるために池が作られてきたわけではありません。しかし日本の庭が自然を描写したものであるならば、様々な生き物が集まるように工夫することは大切なことでしょう。自然の風景をあるがままに取り入れるのであれば、いまでも水は大切な存在なのです。
一方、水のある風景は人の心を安らげてくれます。しかも、水があることを連想させるだけでもいいのです。手水鉢に水が流れ込む音であったり、獅子おどしの澄んだ響きであっても、そこに水があることを連想できる演出が施されているだけで、人は心に安らぎを覚えるのです。かつて、手水鉢を見た外国人は日本人のきれい好きを実証するものだと感心しました。しかも、鉢を支える支柱に樹木の幹、自然石、彫刻が施された古い家屋の柱などが使われていることに、感嘆しています。このように、手を洗うための道具としてだけではなく、いかに心地よく水を使うかに工夫を凝らしたのです。
現代のガーデニングの庭作りにも、こうした日本人の水に対する思いは生きています。小鳥が水遊びをするためのバードバスや水音が楽しめる噴水など、水を演出する道具は異なっても、日本人は庭に水のあるイメージを求めています。

手水鉢1 手水鉢2 シダ植物と岩
手水鉢1 獅子脅し
手水鉢1手水鉢は手を洗うために設けられたものですが、鉢の形、支柱の材料、水の引き方で、庭の雰囲気が変わってきます。また、手水鉢の周りの地面に小石を敷くことによって、足元に水溜まりができるのを防ぎます。灯篭も本来は明りを取るためのものでしたが、いつしか飾りとしての意味あいを強めました。獅子おどしも山村で猪を追い払うための道具であったと思われます。

庭から見えてくる自然との付き合い方
 日本人は植物の生えている場所や生態を鋭く観察して、庭に植えてきました。水についても同じです。遣水もたんなる池へ水を導くだけの水路ではなく、自然の河川を観察し、淵や瀬を庭の中に取り入れてきました。こうした自然に対しての観察力は、庭作りだけを目地としていたからではありません。花や虫、動物といった生命をもつものはもちろん、山や川、石や木、水、雲、さらには人間が作り出した日常的な物から建物まで、身の回りにあるすべてのものに神、あるいは生命が宿ると考えていたのです。つまりすべてがあるがままのものであり、人と同じ命ある平等な存在であったのです。人と人工物と自然の間に、上下の関係といった序列をつけることはなかったのです。対等の関係であるならば、力で相手をねじ伏せるのではなく、理解することが大切となってきます。だからこそ、あるがままの風景を庭に取り入れてきたといえるのではないのでしょうか。
ところが、日本人はいつしかそうした考え方を失い、人と自然との間に上下の関係を作り出してしまったのです。例えば、花については花の咲く時期だけを楽しみ、種から育て、鑑賞した後は再び種を採り、翌年に備えることをしなくなりました。雑木を庭に入れるのも、暮らしの周辺から雑木が姿を消し、人々が雑木を懐かしむようになった結果です。
かつてはごく当り前にいた虫や小動物、小川の魚、花などが次々と姿を消したのは、人間が力で自然をねじ伏せた結果といえるのです。失くしてしまった小さなせせらぎを求め、庭に水のある風景を取り入れる人もいるでしょう。対等に付き合っていたならば、水も美しい流れのままであったはずでした。いまこそ、人間と自然との関係を庭という小さな空間から考え直してみてもいいのかもしれません。


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