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神々の住む世界を具現化 |
日本の庭の起源についてはさまざまな説があります。例えば、神が降り立つ大きな岩や、神を祭るために池の中に島を作ったりしたことが、庭の起源だとする説です。それが後の庭石、築山、池などの日本庭園の要素となっていったというのです。また、紀元前の中国の権力者が、広大な池を掘り、そこに蓬莱島などを築き、池の周りには石像物を置いて神の住む世界を表わそうとしたのが庭の始まりで、やがて朝鮮半島を経て日本に伝えられたとする説もあります。いずれにせよ、庭はもともと神の住む場所を具現化したものとして作られたようです。
朝鮮半島から日本に伝えられたという庭とは、どのようなものであったのでしょうか。日本書紀によると、日本へ漂着した百済(くだら)の人が、宮廷の南に池を掘り、中国風の橋を架け、須弥山をかたどった石像を造ったと記されています。須弥山とは仏教で世界の中心にあるとされる山です。つまり、この頃の日本の庭は宗教的な雰囲気をもつものであったのです。当然、時の権力者にしか庭はもてませんでした。では、日本独自の庭が作られるようになったのはいつ頃からでしょうか。日本の文化といっても、もとはといえば中国の影響を強く受けたものばかりです。平安時代の承和元年(834)、日本は最後の遣唐使を派遣します。この頃から、日本は唐の影響から徐々に離れ、独自の政治体制や文化を築いていきます。
平安時代の代表的建築といえば寝殿造です。この寝殿造に付随した庭こそが、日本庭園としての始まりだといえるのです。寝殿造というのは、敷地の中央に主人が日常生活をしたり客と応対する寝殿を置き、その左右、背後に家人の居住する対屋(たいのや)を設け、それらを廊下でつないだ建物です。この敷地に作られた庭園を寝殿造庭園と呼び、寝殿の正面に池を作り、島、遣水(やりみず)、築山、滝などをあしらっています。平安時代は藤原氏が栄華を極めた時代です。浄土思想にとりつかれた貴族たちは、権力と財力によって荘厳な寺院を建築し、さらに寺院の荘厳さを高めるために庭を作ります。庭と寺院とでこの世に浄土を作ろうとしたのです。いわゆる浄土庭園と呼ばれている庭です。
一方、平安時代の末期になると都の中での争いや都市の開発が進んだ結果、京の町中の水脈が涸れてしまい、遣水や池の水が得られなくなってきます。貴族の中には館を郊外へと移すものもいました。そこには池や遣水のない庭も出現します。 |
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枯山水庭園の出現 |
平安時代後期から鎌倉時代初期に書かれたとされるのが、庭作りの書「作庭記」です。この書には庭を構成する要素として、池、中島、遣水、滝、泉、樹木、そして石が挙げれていますが、その中でも石が最も重要だとされています。さらに「生得(=自然)の山水」や「国々の名所」、つまり自然の風景を思い浮かべながら庭を作るとよいとも記されています。
鎌倉時代になると貴族階級から武士へと政権が代わります。すでに庭園は一つの文化へと高められていました。また、この時代は浄土思想に代わって禅宗の思想が広まります。当然、庭園にも大きな変化が見えてきます。この頃、庭作りを担っていたのは僧侶でした。彼等は「石立僧」と呼ばれていました。高い文化として確立されていた庭作りには、優れた教養と知識が必要であったのでしょう。石立僧の名からも、石組が庭作りの最も重要な要素であったことがうかがえます。
庭作りが、広大な敷地をもっていた貴族階級から中級の僧侶たちへと移るようになると、庭の面積は小さくなってきます。しかも、平安時代までは庭の必要条件とされていた池や遣水は必ずしも必要とはされなくなりました。別の形で水を表現すればよいという考え方が生まれてきました。こうして作られていったのが「枯山水」でした。枯山水の庭を最初に確立したのは禅僧の夢窓国師(疎石)でした。
庭は自然の風景を描写したものですが、枯山水の庭は、水を用いずに自然の風景を表現しようとしました。しかも枯山水の庭は、屋内から鑑賞するのが基本で、平安時代の庭に比べると、はるかに狭い空間です。そこに大自然の景観を表現しようとすれば、木や石の形や配置に工夫を凝らし、一種の遠近法の手法を用いることで可能となってきます。この枯山水の庭を、さらに石と白砂だけで表現しようとした庭が石庭と呼ばれています。
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日本の庭は、池や遣水が重要な構成要素でした。やがて水を使わずに水をイメージさせる枯山水の庭が出現し、石を使って滝や池を表現するようになりました。ここでは、何を使って自然を表現するかよりも、自然の何を表現するのかが重要になっています。 |
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