水の話
 
五穀にも数えられない蕎麦が大切にされてきた理由

蕎麦切りだけは特別な料理
 蕎麦は日本の山村での主要な食べ物のひとつでした。しかも、必ずしも高級な食事ではなかったのです。地方によっては、三度の食事がすべて蕎麦であったところもあるようです。
戸隠村では、主食であった蕎麦は収穫して蔵に保存して、毎日その日に食べる分だけを水車で挽いて粉にしていました。開田村では主食ではありませんでしたが、やはり、その日に食べる分だけを水車で挽きました。玄蕎麦のままなら保存が利くのですが、粉にするとすぐに品質が落ちてしまうからです。蕎麦を主食としない地域では、蕎麦は主食となる稗や麦、米などと一緒に煮込んで、主食の量を節約するのに使われていました。
蕎麦は匂いを吸収しやすいため、塩素の入っている水道水で打ったり茹でたものはおいしくありません。また、蕎麦には、油物がよく合います。そのため、多少味の良くない蕎麦でも、てんぷら蕎麦にすると、おいしく感じられるといいます。蕎麦を主食としていた戸隠村では、60~70年前には焙烙(ほうろく)鍋でエゴマを煎り、そこで蕎麦を焼いて食べていたそうです。決して蕎麦は高級なものでもおいしいものでもない、ごく日常的な食べ物であったのです。
ところが、開田村では来客をもてなすときは蕎麦を打ち、蕎麦切りとして振る舞っていました。この場合の蕎麦はご馳走だったのです。蕎麦切りを作るのは手間がかかったのです。冬の夜などは、囲炉裏にかけた鍋の中へ秋のうちに収穫し、乾燥させておいたキノコなどを入れてダシを作り、そこへお椀一杯分づつの蕎麦切りを入れた「投じ蕎麦」を振る舞ったのです。おそらく大切に保存している食材を入れることによって精一杯のもてなしをしたのでしょう。

開田村一望
稗田の碑

気候の厳しい開田村の歴史は、一面では寒冷地に強い作物を作る歴史でもありました。そして最初に稗の作付けに成功した人を賛えた「稗田の碑」が村内3か所に残されています。昭和20年代以降に開拓のために入植した人たちもかなり苦労をされてきたようです。
開田村の風景

蕎麦の歴史から見えてくる水との係わり
 いまでは高級料理にも使われる蕎麦ですが、もとはといえば米を作ることができなかったため、止むを得ず食べていたという地方も多いのです。日本全国誰もが米を日常的に食べられるようになったのは、ほんの半世紀くらい前からにすぎません。ところが、水田が増えると同時に、皮肉にも食文化の多様化などによって、米食離れが起きてしまったのです。さらに減反政策もあって水田は減少していきました。
蕎麦畑の一角に立つと、彼方には雄大な山容が望めます。清らかな流れのすぐ向こうには、刈り取った稲を干すための稲木(いなぎ)の間を通して、澄み渡った青空と太陽の光、その向こうには古びた農家の納屋も見えています。蕎麦の産地として有名な、といわなければ、ここはどこにでもある、日本の原風景のひとつともいうべきありふれた農山村かも知れません。蕎麦畑が点在し、その周りに野菜畑や田んぼが広がっています。しかし、ここにある田んぼの歴史はそれほど古いものではないはずです。おいしい蕎麦を食べるには、おいしい水を使うのは当り前です。その一方で、米を作りたくても適温の水が得られなかったがために、蕎麦しか作れなかった地域もたくさんあったのです。そして、やっと手に入れた水田が今度は不要のものになろうとしています。おいしい蕎麦には、水を巡る人々の様々な歴史や思いも込められているのです。


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