荒縄で衣服を括(くく)り、巧みに船を操り相手の船に飛び乗っては略奪を繰り返す荒々しい海の男たち。海賊という言葉からはそんな姿が連想されます。大島のすぐ沖に浮かび、激しい潮流に囲まれた能島はそんな海賊たちの根城に似つかわしい雰囲気を漂わせています。昔話の桃太郎に出てくる鬼ケ島もこのような島であったのかも知れません。
能島には城が築かれていました。それも島全体が一つの要塞となるようにつくられていました。陸上にある城との違いは土塁(どるい)や堀がないことくらいです。こうした城は海城と呼ばれています。能島に城が築かれたのは1419年(応永26年)と伝えられています。
海城が築かれている島を囲む海と激しい潮流は堀や土塁の代わりとも言われています。瀬戸内海にはこうした海城跡がたくさんありますが、国の文化財として指定されている海城は能島城跡だけです。海城の歴史は意外と古く、日本最古の海城は大島の北に位置する大三島の甘崎城で海上の要塞として築城されたのは671年(白雉3年)とも言われています。一方、能島にいた海賊は海の盗賊ということを意味しているのではありません。海を舞台として活躍した武士集団とも言うべきでしょう。
島や海辺で暮らす人たちは海から魚介類や海藻、塩などの糧を得ていました。潮の流れや海底の状態などは自然と身に付きます。ただ瀬戸内海で暮らす人々にとっては彼等が身に付けた海の知識が漁労以外のことで役立つことになってきます。瀬戸内海は古くから物資を輸送するための重要な「道」として使われていました。しかし瀬戸内海は潮流の変化が激しく、難破する船も絶えず、誰もが気軽に利用できる「道」ではありませんでした。それでも危険な潮流をうまく利用をすれば目的地までより早く運んでくれる流れとなります。そのためには海を熟知していなければなりません。干潮時に顔を出している岩礁も満潮になると水面下に隠れてしまう場所がたくさんあります。激しい潮の流れのため岩礁にぶつかれば船は一瞬にして砕けてしまいます。伯方島と鵜島の間は船折瀬戸と呼ばれ、いまも恐れられています。
難破した船からの漂着物は思わぬ「贈り物」をもたらしてくれることもあったでしょう。やがて難破船からの贈り物を待つだけではなく、瀬戸内海を航行する船を積極的に襲い、略奪を働くものも出現します。身を隠す島影の場所や潮流の動きを熟知し、船を操ることができる人々にとって瀬戸内海は海賊行為を働くには格好の海でもあったのです。 |
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大島の村上水軍博物館。
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海の大名と呼ばれた村上武吉の陣羽織。
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