水の話
 
激しい潮流が育てた水軍の郷

水軍として瀬戸内海を支配する海の武将
 海賊から船を守り、潮流の激しい瀬戸内海を安全に航行する方法は、この海域を熟知した海賊たちを雇うことです。大島の浮かぶ芸予諸島は瀬戸内海の中でも本州と四国が接近し、島が最も密集した海域です。そのため難所が多いばかりか多くの海賊たちが跋扈(ばっこ)していました。そうした海賊の中から力を付けた勢力が現れてきます。そして海上警護の名目で「通行料」を徴収するものが出てきます。あるいは自ら交易を行う海賊たちも出現します。能島のすぐ近くにある見近島にも海城の跡があり、ベトナム、中国、朝鮮半島を産地とする陶磁器が多数発掘されています。
能島の名前が文献に初めて現れたのは1349年(正平4年)でした。そして村上氏は海賊から強大な力を持つ水軍へと変わっていきました。村上水軍には3つの系統がありました。その中でも特に力を持ったのが能島村上氏でした。彼等は戦国時代を迎える時には水軍として様々な戦に参戦するようになっていきます。そして海賊は海を支配下に置いた武将として活躍するようになっていったのです。


復元した軍船を使った水軍レース
 村上水軍が戦で用いた船は3種類でした。水軍の主力となったのが戦国時代に最強の軍船といわれた安宅(あたけ)船です。大砲を備え、船体の上部には矢倉と呼ばれる装甲を施し四方に弓や鉄砲を撃つための狭間(さま)が開けられています。安宅船に次ぐ軍船が関船で、名前は海の関所の番船として使われたところからきています。通行税を払わない船を追いかけるためにスピードが出せるように細長くつくられています。そして関船を小さくした小早船(こばや)がありました。連絡や斥候用の船として使われるため機動性とスピードを優先させています。帆走もできますが主に十数丁の櫓を使って漕ぎました。今は復元した小早船を使った「水軍レース」が能島と大島との間で毎年7月に行われています。レース会場となる場所は大島側の海岸線に沿った200mの距離です。ここは潮流の影響をあまり受けない場所ですが、それでも体力を相当に消耗するとのことです。
水軍レース
大島で毎年7月に開かれる水軍レース。小早船に12人が乗り200mの直線コースで早さを競います。(写真:今治市)

能島城跡の周囲 繋船石
能島城跡の周囲には、満潮時でも利用できるような「武者走り」状の通路がつくられていました。岩礁にはピット(柱穴)を掘り、柱を立て、船をつなぎとめるなどしていました。
上の写真は村上水軍博物館に展示されている、繋船石(大島戸代出土)です。


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