水の話
 
ホタテ養殖技術発祥の地
オホーツク海の荒波と流氷によって磨かれたのでしょうか、波打際の小石は平らで丸い形をしたものばかりです。風のないオホーツク海は穏やかな表情です。サロマ湖はもともとがオホーツク海の一部でした。それが長年のうちに砂州によって分離されて湖を形成した海跡(かいせき)湖です。

雪融け水とオホーツクの荒波で作られた湖
北海道 周囲約90km、面積約152km2のサロマ湖は琵琶湖、霞ヶ浦に次ぐ日本で3番目の広さを誇ります。ところがサロマ湖は淡水湖ではなく、汽水湖です。汽水とはいっても塩分濃度は海水とほとんど同じです。サロマ湖はもともとが海の一部で湾となっていました。今から5,000~6,000年前、地球の気候変動による海面の低下に伴い、湾の入り口に砂嘴がつくられ、オホーツク海から隔てられていきました。その後も砂嘴(さし)は成長し3,000年ほど前に海と切り離されて、現在のサロマ湖になったのです。サロマ湖の近くにある能取(のとろ)湖、網走湖、厚岸(あっけし)湖、濤沸(とうふつ)湖などはいずれも海跡湖です。
 サロマ湖に流入河川はありますが、流出河川はありません。サロマ湖の東の端に、鐺沸(とうふつ)と呼ばれる小さく細長い入り江のような場所があります。かつてここにサロマ湖からオホーツク海へ水が流れ出す湖口(こぐち)がありました。春になると雪融け水が大量に流入し、湖の水位を上昇させ、やがて砂州(さす)の一部が切れてオホーツク海とつながったのです。しかし冬になると荒々しく打ち寄せる大波によって、湖口は砂で埋まりました。そんな自然の営みが3,000年もの間繰り返されてきました。

オホーツク海
サロマ湖の北に広がるオホーツク海。波穏やかな岸辺ですが、冬になれば流氷が押し寄せてきます。


豊かな海の幸を求めてオホーツクへ来た人々
 オホーツク海沿岸にはかなり古くから人が住み着いていました。北海道が大陸と地続きであった今から2万年以上前、獲物を追って北方の狩人たちもこの地へやってきました。さらに続縄文文化、擦文(さつもん)文化、アムール川下流域が原郷のオホーツク文化、そしてアイヌ文化が花開きます。オホーツク文化の担い手であったオホーツク人が残した貝塚からはホタテ、カキの貝殻やニシン、サケ、マス、タラ、アザラシ、クジラなどの骨が発掘されています。
 北海道の名称が使われるようになったのは明治2年(1869年)です。それまでは蝦夷(えぞ)地と呼ばれていました。その蝦夷地に本州から人が入植するようになったのは今から800年ほど前の鎌倉時代の頃といわれています。源義経をかくまった平泉の奥州藤原氏の一族郎党が蝦夷地へ逃れることによって、本格的に移住するようになりました。
 その後も武士や商人、漁師などが移住し松前藩が蝦夷地を治めるようになりました。蝦夷地に渡った人々はアイヌとの交易を行うと同時に、漁場の開発も進めました。やがてサロマ湖の辺りにも漁場が開かれましたが、人々が住んだのは夏の漁期だけでした。明治時代になり北海道開拓が進められると、急速に人口が増えていきました。
 サロマ湖の近くへ移住した人々の多くは漁業に従事していました。流氷の押し寄せるオホーツク海側に船を置けるような場所はありません。そこで人々は春になると、冬の間に砂が堆積した湖口を切り開く「汐切り」を行い、湖からオホーツク海へと船を出し、漁業を営んでいました。
 この頃のサロマ湖では主にボラが獲れました。その他にもヤマメ、ウグイ、イトウなど淡水の魚も獲れました。また海水が流入する湖口の付近ではカキもたくさん獲れました。一方、オホーツク海ではサケ、マスなどが獲れました。そして明治の終わり頃になり、サロマ湖の東の沖でホタテの漁場が発見されました。
 サロマ湖の西の村でも漁業を営んでいました。オホーツク海で漁をするにはサロマ湖の西の端から東の端の鐺沸の湖口まで船を漕いで行かなければなりませんでした。さらに春先の雪融け水で湖面の水位は2mも上昇しました。農業に従事する人にとって、湖面の上昇は畑の水没を意味します。そこで春先になるとサロマ湖周辺に住む人々が鐺沸に集まり、総出で汐切りに従事していました。
 湖口を切るといっても、砂でできたダムのようなものです。砂丘の幅は100m以上もありますが、3~4日かけて鍬(くわ)で水道(みずみち)を掘れば、後は水圧によって自然に大きな排水路となり、湖水はあっという間にオホーツク海へ流出しました。

水揚げ 水揚げ
オホーツク海での漁を終え、港で水揚げをする漁船。どのカゴにもたくさんの魚が入っています。

漁港
サロマ湖内にはいくつもの漁港が整備されています。海の幸がそれだけ豊かだということです。


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