水の話
 
ホタテ養殖技術発祥の地

切り開かれた湖口によって淡水湖から汽水湖へ
 オホーツク海は豊かな漁場です。本州や函館方面から多くの漁船がホタテ漁を目的に押し寄せるようになりました。でもホタテ漁は不安定です。条件によって大発生する年もあれば、水揚げのほとんどない年もあります。また、乱獲によって水揚げが一挙に10分の1以下にまで落ち込む年もありました。
そんな漁民の生計を支えたのがサロマ湖のカキでした。天然カキ漁業が始まったのは大正時代です。
ところが天然カキ漁業が始まってしばらく経ってサロマ湖に一大変化が起きました。春に起きる水位の上昇を防ぎ、湖の東まで迂回しないでも簡単にオホーツク海へ船を出せるようにしたいというのがサロマ湖の西に住む人たちの夢でした。そこで砂丘の西に湖口を切り開き、航路をつくることを考えたのです。この計画は何度も試みられましたが、失敗続きでした。砂丘の幅は約100m、高さ約7mです。波の高い時には白波が砂丘を越えることもありました。現在のような重機はありません。スコップとモッコだけで作業が進められましたが、砂の下は堅い粘土層になっていたのです。なんとか水が通る程度の溝を掘っても、時化(しけ)になるとすぐに塞がってしまうのです。
昭和4年(1929年)、上部の幅約7mのV字形の溝をなんとか掘ったのですが、思ったように水が流れませんでした。住民はあきらめかけていました。ところが一応の工事が完了した日の夜、嵐に襲われ、湖口は一気に幅200mにも広がったのです。そして冬が訪れても、2度と湖口が塞がることはなくなりました。ここは現在、第1湖口と呼ばれています。

第1湖口 汐切り
昭和4年、サロマ湖の西に切り開かれた第1湖口。写真の手前がサロマ湖で湖口の向こう側に広がるのがオホーツク海です。 昭和3年まで「汐切り」が行われていた鐺沸の湖口があった場所。今では石碑のほかは湖口のあった痕跡は見当たりません。


カキ漁からホタテの養殖へ
 新しい湖口の開削によってサロマ湖の水位が上昇することはなくなりましたが、逆に海水が流れ込み、サロマ湖は淡水湖から汽水湖へと変貌してしまいました。水温も低下し、カキは産卵ができなくなりました。
その一方でサロマ湖と外海が一体化したことによって、湖の中でもホタテが獲れるようになりました。そこで湖内で自然採苗(さいびょう)したホタテを外海に放流増殖する試験が昭和9年(1934年)から始まり、いまではホタテ養殖発祥の地として知られています。
ホタテは漢字で帆立と書きます。貝殻を開けて一方の殻を舟に、もう一方の殻を帆にして風を受けて海面を移動するからだといわれていますが、実際は貝殻を閉じる時に海水を勢いよく吐き出して飛ぶように移動します。貝柱が大きく力もそれだけ強いということです。ホタテは貝殻を含めた全重量の13%ほどを貝柱で占めています。
ホタテは水温の低い海域にすむ二枚貝で、サロマ湖、オホーツク海沿岸部、北海道の噴火湾、青森県陸奥(むつ)湾を中心とした地域が産地として有名です。さらに最近は養殖技術の発達により、宮城県や岩手県も産地となっています。
サロマ湖やオホーツク海沿岸部でホタテ増養殖が行われるようになったのは第1湖口が切り開かれてカキが獲れなくなったことも理由の一つでした。

常呂(ところ)漁港
ホタテ
常呂(ところ)漁港でのホタテの水揚げ。
1回の出漁での漁獲量は約15tです。


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