水の話
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絶滅から復活へ

生息環境の変化によって絶滅

 ドジョウなど、コウノトリの餌になるものの多くは水田にいます。コウノトリの体重は4kg以上もあるため、ドジョウを獲るときに水田の中を歩き回り、稲を踏むことがあります。そのため田んぼを荒らす有害な鳥だと思われていました。
一方でその姿から、コウノトリをツルと呼んでいた地域がありました。兵庫県の豊岡盆地を中心とした但馬(たじま)地方では古くからコウノトリを瑞鳥(ずいちょう)と呼び、大切にしていました。江戸時代の出石(いずし)藩(兵庫県豊岡市出石町)ではたくさんのコウノトリが営巣していた標高120mほどの山を藩主が鶴山と名付け、禁猟としていました。
ところが明治時代になり、狩猟用の鉄砲が普及します。コウノトリは有害な鳥だと思われていたため、乱獲されて急速に数を減らしていきました。
明治41年(1908年)にコウノトリは保護鳥に指定されましたが、この時には但馬地方を除き、すでに日本の空からほとんどその姿が見られなくなっていました。保護鳥として指定されたこともあって、多くの人がコウノトリ見物に鶴山を訪れるようになりました。しかし営巣地が荒らされる心配が出てきたため、地域の人たちによる鶴山の保護活動が行われると共に、国も日本で唯一のコウノトリの繁殖地となった鶴山を史跡名勝天然記念物に指定しました。こうして但馬地方ではコウノトリが増えていきました。
第二次世界大戦が始まると石油の輸入が減少しました。そこで代替エネルギーとして松の根から松根油がつくられたり、薪として使うため多くの木が伐採されたりしました。コウノトリの営巣に適した鶴山のマツもほとんど伐採されてしまいました。
戦争が終わっても、荒廃した都市を復興するため、住宅建設資材としてたくさんの木が伐採されました。しかも、将来の木材需要に備えるということで、雑木林はスギやヒノキに植え替えられていきました。食糧不足も深刻でした。食糧増産のため、圃場整備や河川改修も盛んに行われるようになりました。
但馬地方でもコウノトリが餌を獲りに訪れていた湿地や湿田が圃場整備によって急速に減少していきました。さらに追い討ちをかけるように、農薬が使われるようになり、コウノトリが餌としていた田んぼの生きものが減少していきました。


鶴山
コウノトリを保護するため、かつて出石(いずし)藩主はコウノトリが繁殖していた小さな山を禁猟地として鶴山と名付けました。



ロシアから贈られたコウノトリ

 野生の動植物の保護は容易ではありません。それぞれの個体だけを護ったとしても、将来に渡り持続させなければ、いつかは絶滅してしまいます。そのためにはその生物が生存している周辺環境全体を含めた生態系を護らなければなりません。つまり生息地域全体の環境を整えることです。コウノトリを保護する場合も同様です。繁殖できる環境をつくらなければ、絶滅への道をたどることになってしまいます。
豊岡市でも戦争中に多くの木が伐られたため、営巣に適した木の代りに人工巣塔を設置しました。さらに餌となるドジョウを集め、地域の田んぼや小川に放流しました。ところが当時は水田などに大量の農薬が使われていた時代です。餌となるドジョウにも農薬が含まれていました。
20羽程しか生息しなくなったコウノトリが特別天然記念物としての指定を受けたのは昭和31年(1956年)でしたが、昭和34年(1959年)を最後にヒナは生まれなくなりました。
なんとかして個体数の減少を食い止めようと昭和40年(1965年)から兵庫県教育委員会は日本で最後の生息地となっていた豊岡市で人工飼育を開始します。このとき、日本のコウノトリはわずか12羽にまで減少していました。そして昭和61年(1986年)には保護、飼育されていた最後の1羽が死に、日本のコウノトリは完全に姿を消しました。コウノトリはもともと渡り鳥です。まれに大陸から日本へ飛来するものもあるようです。
昭和60年(1985年)にロシアからコウノトリの幼鳥6羽が贈られました。日本のコウノトリとの基本的な違いは、日本で繁殖したかどうかです。ロシアから贈られたコウノトリはすくすくと成長し、平成元年(1989年)に待望のヒナが誕生します。これ以降、飼育場では順調に繁殖していくようになりました。


コウノトリが飛ぶ姿
飼育場で人工繁殖したコウノトリも、今では自然の中で生まれた2世、3世が育ち、順調に野性化しています。






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