水のお値段

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「湯水のごとく使う」の意味を考える

無駄遣いすることを「湯水のごとくお金を使う」などと表現します。湯や水は好きなだけ使うことができる、という意味から転じた慣用句とされています。では、日本では本当に昔から湯水を無駄遣いしていたのでしょうか。

水があっても水が使えない日本

 日本は世界的に見ても水の豊富な国の一つです。地球上にある水の総量は約14億km3といわれますが、そのうちの約97%が海水で、淡水は約3%です。さらに淡水のうち氷河や地下水が70%近くを占めています。この他大気や土壌にも多くの水があり、そのまま使うことができる河川の水は地球上の水のうちわずか0.0002%程度しかありません。
 一方、日本の年間降水量は約1,700mmで世界の平均とされる約900mmの2倍もあります。しかも日本はいたる所に大小の河川が流れているため、いつでも、どこでも、自由に、ふんだんに水が使えそうです。
 しかし水がたくさんあるからといって、必ずしもいつでも好きな時に自由に使うことができるとは限りません。日本の年間降水量の容積は約6,500億m3です。このうち約3分の1は蒸発散してしまい、さらに降った雨や雪の約半分は海へ流れ出てしまいます。結局、利用可能な水の量を取水量でみると年間降水量の13%程度です。これを一人当たりの水資源で見ると、世界平均の4分の1しかなく、中東のイラクとほぼ同じです。
 また水を運ぶ手段がないと水を自由に使うことはできません。現代ではほとんどの家庭に水道が引かれ台所、風呂、トイレなど、水を使う場所に蛇口があります。しかしこうした水道が完備されるようになったのは最近のことです。

水に恵まれているとされる日本ですが、地形が急峻なため、降った雨の多くはすぐに海へ流れ出てしまい、実際に使用できる水の量は、必ずしも豊かとはいえません。

銭湯は仏教によって広まった

 日本人は風呂好きな民族だとされ、今ではほとんどの家に風呂が備えられていますが、ほんの半世紀ほど前までは、どの家庭にも風呂があったわけではありません。多くの人は銭湯へ出かけていました。家庭風呂は内風呂、銭湯は外風呂と呼んで区別していました。
 風呂といえばお湯を張った浴槽に浸り、洗い場で体を洗うのが当たり前となっています。こうした浴槽に浸かる形式の風呂が広まったのは仏教と関係しています。約1,500年前に日本に仏教が伝来します。仏の功徳を広めるため、境内に浴室をつくり参詣した人々の体を洗わせました。気分が爽快になると共に、体が清潔になるため健康にも役立ちました。やがて入浴料を取るところが現れてきます。これが後の銭湯の始まりになったのです。
 浴槽形式の風呂がつくられる前は洞窟のようなところでワラなどを燃やし、そのうえに濡れた海藻や濡らしたゴザなどをかけ、蒸気を充満させた中へ入って汗を流し体を拭くということがおこなわれていたようです。これは現代でいうサウナを指し、風呂とは室が訛った言葉だともいわれています。
 そして浴槽に湯を張る形式の風呂は湯とか湯殿、湯屋と呼ばれていました。当時は鉄でつくった浴槽に水を張り、直火で温めるのが一般的のようでした。浴槽といっても大きな鉄製の釜のようなものです。それなりの財力のある人でなければつくれませんでした。さらに水と燃料となる薪が必要になります。その薪も広大な山林などを所有していなければ簡単には大量に得られません。
 銭湯が一般に広がるのは江戸時代になってからです。徳川家康が江戸に城下町を築くと全国から多くの人が集まってきました。しかも庶民の多くは浴室のない借家住まいでした。

僧侶が身を清める場所として、東大寺につくられた湯屋。日本に現存する寺院の湯屋では最古といわれています。鉄の湯船の直径は2.3m、この湯船に別の釜で湧かした湯を入れ、その湯を体に浴びて使う湯浴を目的としてつくられたようです。

水も燃料も貴重品

 江戸時代の銭湯は、浴槽の中にわずかな湯しかありませんでした。湯に浸かるのは腰から下だけで、上半身は湯気で蒸すという蒸し風呂の一種でした。そこで蒸気が逃げないよう、浴槽への出入口には「ざくろ口」が設けられていました。体を洗うには湯桶に汲んだ湯を入浴料とは別に購入していました。
 また、江戸時代の公衆浴場は男女混浴であったといわれますが、最初から混浴であったわけではありません。現代のように男湯と女湯に分けるのではなく、同じ浴場を時間ごとにあるいは日にちによって使い分けていたのです。しかしそうした規則が守られなくなり、結果として男女混浴になることがありました。幕府は風紀上の理由からしばしば男女混浴の禁止令を出したとされています。湯は毎日取り替えるのではなく、減った分だけ足していたようです。
 当初の銭湯が蒸し風呂に近い形式であったのも、男女混浴がおこなわれたのも、ようするに、水も燃料とする薪も貴重品であったからです。銭湯の入浴料は江戸時代後期の頃で10文という記録があります。なお、当時、ソバの値段は一杯16文であったと言われています。

江戸の街には、飲料水を確保するための上水が幕府によって何本もつくられました。安藤広重の「名所江戸百景」にもそのうちの玉川上水が描かれています。現在の東京都羽村市で多摩川の水を取水し、四谷までの全長約43kmに及ぶ導水路が完成したのは1653年でした。標高差はわずか92mです。現在、導水路の大部分は暗渠化されています。

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