鉄の扉が開き、その間をボートが進んでいきます。水面の高さが違う川と川とを行き来できるようにつくられた閘門と呼ばれる水門です。閘門を往き交う舟の多くはレジャーボートです。
木曽三川で江戸時代におこなわれた宝暦治水と呼ばれている大規模な治水工事は、下流部で入り乱れる流路を3本の川にまとめ水害を防止することを目的としていました。しかし思ったほどの効果は得られなかったようです。堰をつくることで、ある程度の分流ができたのですが、むしろ土砂が堆積し、洪水が起きやすくなった場所もあったのです。木曽三川をそれぞれ独立させる分流工事はこの地域で暮らす人にとっては長年の悲願でした。
明治政府は明治20年(1887年)から明治45年(1912年)にかけて当時の国家予算の約12%という巨費を投じて木曽三川の完全分流を目指した河川改修工事をおこないました。
分流工事で大きな役割を果たした人物の一人が、明治政府によってオランダから招聘されたヨハニス・デ・レーケでした。当時オランダは世界で最も進んだ治水、治山の技術をもっていました。彼は関東から九州まで多くの堰堤工事や築港にもかかわっています。
明治時代にオランダの土木技士デ・レーケの指導でつくられた石積みの砂防堰堤。
デ・レーケによって、木曽三川は木曽川、長良川、揖斐川の3河川に完全に分流され、水害の被害は大きく減少しました。ただ、三川分流工事はたんに洪水を防止するためだけではありませんでした。低湿地帯の排水対策と舟運の改善も目的としていました。
木曽三川の下流部はいくつもの派川があったため、舟運には便利な面がありました。それが完全に分流されると、隣を流れている川へ舟で行くには、一度河口まで下り、あらためて上流へ上らなければならなくなります。
木曽川と長良川との水位の差は約1mもあるため、明治35年(1902年)に船頭平という場所に閘門がつくられました。当時は舟運が盛んな時代であったため、この閘門は年間約2万隻以上の舟と、1万枚の筏が利用していました。現在では舟運としての役目を終え、ここを利用しているのは大半が漁船やレジャーボートです。
明治になって木曽川と長良川が分離されたため、両河川を行き来できるようにつくられた船頭平閘門。この水路は舟運からレジャーや漁業のためへと役割を変えてきました。
木曽三川分流工事による洪水対策はこの地域にあった多くの輪中を水害から守ることが最大の目的でした。同時に低湿地の排水の改良ということでもあったのです。
輪中の内部は大部分が低湿地となっています。湧水や自然流入する水があり、さらに洪水などで浸水した時などの排水が大きな問題でした。木曽川を浚渫し土砂の溜まりやすい派川を廃川にするといった工事もおこなわれています。このとき、デ・レーケは治山の大切さを訴えています。山が荒れると、流出した土砂によって再び川床が埋まってしまうからです。
輪中は集落全体を連続した堤防で囲っているのが普通です。しかし、当初から連続した堤防で完全に囲っていたわけではありません。尻無堤といって下流部分を開放した馬蹄形となっていました。連続した堤防で完全に囲んでしまうと、堤内の水の排水が困難になるからです。
下流部に堤防がなかったとしても、大水によるある程度の水位の上昇であれば上流部の堤防だけで輪中内は守られます。さらに水かさが増えてくると、やがて下流部の堤防のない部分から浸水します。しかし下流部の堤防がないことで浸水した水は時間と共に自然に排水されます。洪水が起きると大きな被害を受けますが、一方で、洪水は輪中内へ上流の肥沃な土砂を運び込んでくれます。
連続した堤防で輪中を完全に囲うようになってからは、尻無堤よりも、強固に輪中内への浸水を防ぐことができます。しかし、洪水で浸水した水の出口がなくなります。現代のように、強力な排水ポンプなどありません、そこで輪中の下流部の近くに遊水池をつくり、水をここへ集めます。遊水池から川へ通じる樋管などの水路を設け、乾期や大潮の干潮時など、水位に高低差ができる時を利用して排水をするなどの工夫が凝らされていました。
輪中堤の上は道路が整備されていますが、いまもこの地域の人々を洪水の危険から守っています。