明治時代の治水工事によって、輪中に暮らす人々を脅かしていた水害は減少しました。その後も、強力な排水設備や頑丈なコンクリート堤防の整備によって、安全で安心できる生活ができるようになりました。
かつては大雨が降るたびに地域の人々が総出で堤防の見張りをして、いざという事態に備えていました。それでも自然の猛威の前では人間の力は余りにも非力でした。水害にいつ襲われても不思議ではなかったのです。常日頃から地域の人々全てが堤防の管理、排水に対する気配りなどをおこなっていました。輪中での暮らしは水との闘いの暮らしであったのです。
ところで輪中の生活を特徴付けている建物に水屋があります。輪中内では盛土や石積みなどで地面を少し高くして住居がつくられました。さらに敷地の一角に、一段と高く盛土や石積みをした上につくられた建物があります。それを水屋といっています。水害のとき、大切な家財道具や米や味噌、醤油といった食糧などが水に浸からないように保管したり、時には水が引くまでの避難場所としての役目をもっていたりします。さらに軒下には「上げ舟」と呼ばれる舟も吊るしてありました。
現代社会は、頑強な堤防があれば安心できると多くの人が思いがちです。しかも、最新の土木技術を駆使してつくられた堤防は壊れないのが当たり前と考えてしまいます。しかし輪中では常日頃からいざという時に備えていたのです。つまり洪水があって当たり前と考えられていたのです。
輪中の歴史は壮絶な水との闘いであったとはいっても、力ずくで水害を押さえ付けるのではありませんでした。いかにして水と共存していくのかが大事にされていたのです。
洪水の時、避難場所として母屋より一段と高くした場所に築かれた水屋。土を盛り、竹を植えて地盤を固めたり、裕福な家では石垣を積みました。
洪水の時に避難が出来るように用意された上げ舟。普段は軒下に吊り下げています。
現代は、蛇口をひねりさえすれば、いつでも使いたい時に、使いたいだけの水が得られます。だからといって、水と共存しているとは限りません。人間にとって都合のいいように一方的に水を利用しているだけです。むしろ、ふんだんに水が得られることで、水の大切さ、ありがたさといった思いが薄れています。
ところで水道栓のことを蛇口と呼んでいます。蛇は水神の使い、あるいは水神の化身とも捉えられています。水への思いがいつでも水を供給してくれる水道栓を水神に重ね合わせ、蛇口の名称が付けられたのでしょうか。
日本の近代水道は明治時代になって横浜につくられたのが最初です。当初は戸別に配水するのではなく、街頭で10数軒が共同で使用するようになっていました。日本の近代水道は西洋からもたらされたものです。イギリスから輸入した共用栓は、西洋で一般的に使われていたライオンの口から水が出るデザインで獅子頭共用栓と呼ばれていました。そこで日本風にアレンジし、水神である龍のデザインに改め、龍口と呼ばれるものがつくられました。やがて戸別に水道が取り付けられるようになっていきます。より小さく、デザインはシンプルになりました。そして名称も龍口から蛇口へと変わりました。つまり水への思いというよりはデザイン面から付けられた名称のようです。水道栓に水神あるいは水神の化身である蛇の名が付けられていても、蛇口に対し畏敬の念はあまり感じられません。
日本で最初につくられた近代水道の蛇口は共同使用で、ライオンの形をしていました(左)。やがて神社の手水舍で使われている龍のデザインとなり、その流れを受けて家庭用の水道栓が蛇口と呼ばれるようになりました(右)。