熊野古道が2004年(平成16年)にユネスコの世界遺産に登録されました。熊野古道と呼ばれる道は1本だけではありません。伊勢、大阪、和歌山、高野、吉野と熊野の地を結ぶ街道の総称で、熊野街道とも呼ばれています。古代から中世にかけ、熊野本宮大社、新宮の熊野速玉大社、熊野那智大社の総称である熊野三山へ多くの人が参詣するようになります。熊野三山のうち、総本山となるのが熊野本宮大社です。
熊野古道は伊勢から熊野三山へ至る伊勢路、和歌山県田辺市から海沿いに那智、新宮へと向かう大辺地、田辺市から本宮へと向かう中辺地、高野山から本宮へと向かう小辺地、吉野から本宮へ向かう奥駈道とも呼ばれる山岳修行の大峯道などがあり、世界遺産として登録されています。
このうち伊勢路の多くは山の中です。海岸沿いの方が歩きやすいように思われますが、リアス海岸のため海の近くを通るとかえって距離が長くなってしまうからのようです。
今も昔ながらの石畳のみちが続く熊野古道。そのうち伊勢から熊野へ至る伊勢路は大部分が山の中を通っています。
熊野三山への信仰が盛んになったのは、平安時代の末期、上皇や天皇の母、皇后をはじめとした貴族たちがこの地へ出かけるようになった頃からです。もともと、熊野三山は別々の神であったとされていますが、平安時代の中頃から一体化し、それに神仏習合による仏教色が加わったものとされています。後白河上皇などは34回も熊野詣をしたと伝えられています。
ただ、神々の国としての信仰はもっと古くからあったようです。日本書紀でイザナミノミコトが葬られたと記されている場所には花の窟と呼ばれる高さ45mもの岩壁がそそり立っています。
ご神体として岩、滝、巨木などが祀られているところが各地にあります。もともと、自然が創り出した巨大な造型物などには、神が宿ると考えられていました。那智大社は那智滝を御神体として社殿がつくられたのがはじまりとされています。
峠越えが続く伊勢路の中で、花の窟の辺りからが唯一の海岸沿いの道となり、熊野速玉大社へと至ります。
イザナミノミコトが葬られたとされる熊野は黄泉の国への入り口であったのかも知れません。そして深く切り込んだ谷と鬱蒼と生い茂る樹木の熊野の地が神々の住む国として熊野三山への信仰を集めていきました。
七里御浜のすぐ近くに聳える巨大な岩は花の窟といわれ、イザナミノミコトが葬られた場所と伝えられています。
現在の熊野本宮大社は1889年(明治22年)に建てられたものです。
それ以前は熊野川の中洲にありましたが大水害によって流失し、近くの高台に遷座されました。
いつの頃からか、熊野灘の彼方には観音菩薩が住むという極楽浄土、補陀落があると信じられるようになりました。補陀落を目指して船出をしたのが補陀落渡海です。その出発の地となっていたのが和歌山県那智勝浦町にある補陀落山寺です。目の前に広がる美しい砂浜と紺碧の海を眺めていると、水平線の遥か彼方に補陀落があってもいいように思われてきます。補陀落渡海がはじまったのは平安時代です。浄土を目指すとはいっても、実際は死への旅立ちでした。櫂や帆などはなく、自力での航行も出来ず、たった一人で30日分の食料を持って旅立ちます。
渡海に使われる小舟は別の船に曳航されて沖まで行き、曳き綱が切られます。あとは風と波によって大海原を漂うだけです。
熊野灘の彼方に極楽浄土を求めて旅立っていった人がいれば、この地へ不老長寿の薬草を求めてやって来た人もいました。今から約2,200年前、中国の秦の始皇帝の命を受け、不老不死の薬草を求めてやってきたという徐福です。
皇帝は3,000人の老若男女を徐福の伴につけました。しかし、徐福たちは二度と祖国の土を踏むことはなかったとされています。徐福は実在の人物であるとされています。ただ、徐福伝説は東北地方から九州まで、北海道を除きほぼ日本全国といってもいいほどたくさん残されています。その地の一つが和歌山県の新宮市で、市内には徐福が求めた薬草とされるクスノキ科の常緑樹の天台烏薬があります。徐福が本当に日本に来たかどうかは分かりませんが、一緒に船出した3,000人は機織り職人、紙職人、農耕技術者、漁業に関する技術者などであったとされています。