水の話
 
日本の文化を作り上げてきた針葉樹

ヒノキの美林木曽の山は人工林?
 長野県の木曽谷にある赤沢休養林は日本の森林浴発祥の地として、毎年多くの人が森の香りを楽しみに訪れます。ここには木曽五木で知られるヒノキ、サワラ、アスナロ(ヒバ)、ネズコ、コウヤマキを中心として、樹齢約300年の木が繁っています。森の中はほとんどが針葉樹で占められています。この森も、かつては乱伐によって荒廃しかけたことがあるのです。

木曽のヒノキは昔から知られていました。それに目をつけた豊臣秀吉は木曽の山を押さえます。それが徳川家康の手にわたり、元和元年(1615)に尾張徳川家の領地となります。当時は戦国時代が終わり、日本中が城下町建設ラッシュに湧いていました。とくに城郭や上級武士の屋敷や寺社にはヒノキが使われ、特権的な豪商によって多くのヒノキが伐りだされました。当然、山は荒れていきました。尾張藩は幾度か林政改革を行い、ヒノキの伐採の禁止、入山そのものの禁止などを繰り返し、ついには木曽五木すべての伐採を禁止します。その禁を犯すと、ときには死罪となることもありました。荒廃した山を甦らせるために行われたのが択伐です。胸の高さの部分の直径が1尺(約30cm)以上の木のみを選んで伐採するのです。
ヒノキ林
尾張徳川家の藩領として手厚く保護されてきた木曽のヒノキ林。五木が指定されたのも、ネズコを除いて各々の木がよく似ているため、間違えてヒノキを伐採しないようにしたからです。木曽五木のひとつであるマキの皮は火縄銃の火縄にも使われましたが、皮を剥ぐと木は枯れてしまいます。寛文2年(1669)、マキの皮を剥いで斬首された人もいました。

 一方、大木が伐採されると森の中はかなり明るくなります。普通ならササや下草が生えるため、ヒノキの種は、発芽したとしても下草などによって日の光が遮られるため成長できません。しかし、切り株の上など地表より高い場所に落ちた種は発芽し、成長することが可能です。そのため、天然林に手を加え、いまのような立派なヒノキの森が残ったのです。ところが、伐採があまり行われなかった場所は地面が明るくなりません。そうした場所にはヒノキより陰性の樹であるアスナロが芽を出し成長を始めます。アスナロが成長すれば、ヒノキは世代交代ができなくなってしまいます。木曽のヒノキの森のあるものは、いまのままではやがてアスナロの森にとって代わられてしまいます。それが本来の森の自然の移り変わりともいえるのですが、ヒノキの美林を文化財として保護していこうと思えば、ある程度の伐採も必要となってきます。

元伐の図 元伐(もとぎり)の図=木曽式伐木運材図絵(きそしきばつぼくうんざいずえ)より。木曽では木を切り倒すとき、ノコギリではなく斧を使っていました。斧を使うと切り口(木口)が尖った形となり、輸送中に木口が割れるのが防げたからです。

杣人たちに聞こえてくる木の泣き声
 針葉樹の森の中を歩いても、鳥の声はあまり聞こえません。生物の多様性という点からは、広葉樹の森の方が確かに優れています。木の実や山菜など、森の恵みも広葉樹林の方が豊富です。しかし針葉樹にも広葉樹に決して劣らない優れた面がたくさんあるのです。フィトンチッド効果や二酸化炭素の吸収といった面では、針葉樹の方が優れています。それに木材としての経済的価値が高いのは明らかに針葉樹です。だからこそ日本では古くから針葉樹の育林技術が発達してきたのですが、経済的価値が低下していくと同時に、森林に手が入らなくなってしまったことが針葉樹の森にとって一番大きな問題なのです。広葉樹の森についても同じことがいえるのです。かつて農山村の背後にあった里山も、燃料革命、化学肥料の発達などによって、手入れされなくなっています。
木曽川の支流
木曽の木材は木曽川の支流から本流を経て運搬されていました。支流の最上流部には木材を使った床堰という一種のダムを築き、伐採した木を溜めて満杯になったときに木を水と一緒に流しました。写真は床堰の基礎の一部です。

 木曽のヒノキを切り出すとき、杣人(きこり)たちには木の泣く声が聞こえるといいます。国土の多くが森で覆われているにもかかわらず、やはり何百年と生きてきた木は神聖な存在なのです。木を粗末に扱ってはいけないことを知っている杣人だからこそ、木の気持ちが伝わってくるのでしょう。

森の中を歩いていると、風によって木と木が擦れる、ぎしぎしという音を聞くことがあります。その音は、あたかも森が人間に何かを訴えている声のような気がします。木があるからこそ山は水を蓄え、澄んだ谷川を作るのです。木を大切にすることは、水を大切にすることと同じことなのです。


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