水の話
 
風呂の起源は蒸し風呂から

最初の風呂は蒸し風呂
 湯につかる入浴方法が仏教によってもたらされたとすれば、それ以前は入浴のようなことは行われていなかったのでしょうか。実は湯よりも古くからあったのが「風呂」だといわれています。この風呂は「蒸し風呂」のことで、石風呂、岩風呂、穴風呂などとも呼ばれています。どのようなものかといえば、瀬戸内海の沿岸や周辺の島々に見られた石風呂は、自然にできた洞窟や岩をくり抜いた穴の中で木を燃やします。十分に燃えたところで海藻を敷くと、穴の中は水蒸気で満たされます。その中へ入れば多量の汗をかくばかりか、海藻に含まれている養分が水蒸気とともに満たされるため、健康にも大変良いといわれます。海から離れた地域では、炭焼き窯のようなものを作り、その中で木を焚いて、灰を取り除いた上へ水で濡らしたゴザを敷き、蒸し風呂にしたのです。つまり、風呂とは洞窟などを表わす「ムロ」からきた言葉だったのです。

近江八幡市には近隣の農村で「麦壷」と呼ばれる風呂が昭和40年頃まで使われていました。横から出入りできるようになった樽の底で、わずかばかりの湯を沸かし、その中にしゃがんだ状態で入り、戸を閉めます。これは風呂と湯の中間的なものといえるかもしれません。体を洗うときは、外へ出て汲み置きしてある水を使いました。ここで面白いのは、こうした風呂は常にトイレの横に設置されていたことです。湯の量はほんのわずかです。家族全員が入ればかなり汚れます。しかし、汚れれば汚れるほど、肥料としての価値は高まります。それをトイレの汚水とともに肥料として使っていたのです。こうした風呂は水と燃料を節約し、同時に農家にとって大切な肥料の供給源にもなっていたのです。
麦壷
滋賀県近江八幡市の「麦壷」
これは蒸し風呂と湯の中間的なもので、樽の底に少しばかりの水を入れ、下から火を焚きます。樽の中の水蒸気を逃がさないよう、戸が付けられています。2~3人も入れば湯は汚れ、冷めてきます。それでも中の水を入れ替えたり、追い焚きすることはあまりなかったようです。水も燃料もそれだけ貴重であったのです。(近江八幡市立資料館蔵)

江戸につくられた最初の銭湯もサウナ風呂
 江戸っ子は熱い風呂が好きだといわれています。しかし、徳川家康が江戸城に入る前の江戸は葦が繁り、わずかな農家が散在する寒村でした。城と町を築くため、全国から様々な人が流れてきます。城下町の建設に集まった人を相手に金儲けを考えた人がいました。そして1591年(天正19)、銭瓶橋(ぜにがめばし 現・千代田区大手町)のたもとで風呂屋を開業しました。これは、小屋の中に焼いた石を敷き、その上に水をかけて簾の子を置いた蒸し風呂でした。この風呂はかなり熱く、当時の江戸の人はかなり驚かされたようです。

城下の建設などで集まった人たちが江戸に定着し、子や孫が生まれ育ちます。そこでやっと江戸っ子が誕生します。江戸っ子という言葉が使われるようになったのは、1750年(九代将軍・徳川家重の頃)以降になってからです。江戸っ子は熱い風呂が好きだったのではなく、熱い風呂に慣らされていったというのが本当のところのようです。
八瀬の窯風呂
八瀬の窯風呂(都名所図会)
京都の八瀬には、石畳の上に窯を築き、その中で生木を燃やして灰をかき出し、塩水を含ませたムシロを敷いた上に人が横たわるという蒸し風呂がありました。風呂の起源はこうした蒸し風呂であったとされています。(埼玉県立博物館蔵)


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