水の話
 
風呂の起源は蒸し風呂から

水も燃料も貴重品
 江戸の町はもともとが湿地のような場所を埋め立ててつくられました。井戸を掘っても塩分の混じったような水しか得られません。そこで上水が整備されますが、当然、水は高価で貴重なものでした。そのため、銭湯も当初は水が少なくて済む蒸し風呂が主流でした。蒸し風呂ならば、湯を沸かすほどの燃料は必要ではありません。

諸国道中 金の草鞋〈巻十〉
諸国道中 金の草鞋(わらじ)〈巻十〉
相模武蔵(神奈川県座間市)にある星谷寺の門前の宿での様子。あんまが店で両替したときに後ろに積んであった小判を1枚失敬したというような会話や、風呂に入っている客が女性を口説いたところ、独り寝は寂しいというならうちの82歳になるばあさんを、あとで連れて来ましょうかなど、たわいもない会話が綴られています。(埼玉県立博物館蔵)
 やがて、風呂と湯の中間的なものが現われます。蒸し風呂の底に湯を少し入れ、湯気が拡散しないように、浴槽の上に囲いをつけたのです。浴槽への出入り口には引き戸がつけられました。戸棚に入るように見えるので「戸棚風呂」と呼ばれました。しかし、戸の開け閉めが面倒なことから、引き戸の代りに出入り口の下半分は開放したままにして、そこから屈んで入る風呂がつくられました。昔は鏡を磨くとき、ザクロの実の汁を使いました。そこで「かがみ入る」を「鏡鋳る」にかけて、この出入り口を「柘榴口(ざくろぐち)」と呼ぶようになりました。柘榴口の上は「唐破風(からはふ)」の形の屋根がつけられていました。この屋根の様式は風呂がもともと寺院に関係していたところから考えられたようです。こうした風呂と湯の中間的なものの出現が、両者を混同させていきました。

ところで、柘榴口の浴槽内にある湯はきわめて不潔で量も少なく、体を洗う湯を浴槽から汲んで使うということはありませんでした。そこで、別に沸かしたきれいな湯を湯番と呼ばれる人に柄杓で汲んでもらっていたのです。

 いまでは混浴といえば、ひなびた温泉というイメージですが、江戸に銭湯ができた頃は「入込湯」といって、男女混浴はごく当り前であったようです。幕府は風紀上の問題からしばしば混浴禁止の御触れを出したようですが、あまり効き目はありませんでした。しかも、江戸時代の中頃まで、入浴のときは男も女も入浴用の衣服を身にまとっていました。そうしたことも、混浴に対する抵抗を薄めていたのかもしれません。さらに混浴が守られなかった理由として湯女(ゆな)の存在がありました。湯女というのは、最初は入浴客の背中を流したり髪結の世話をする女性でしたが、やがて湯上がり客の酒の相手をするものも現われます。男性客の中には湯女を目的に湯へ行くものもいました。湯女を禁止すれば、当然、混浴も禁止しなければなりません。やがて「三助」と呼ばれる、客の背中を流す男性が現われます。これは湯女を禁止するために生まれた職業のようです。混浴禁止を守った銭湯もありましたが、男湯と女湯を別々に作ると水も燃料も倍になり、それだけ利益が少なくなってしまいます。そのため、男と女の入浴時間や入浴日を分け男女混浴を避ける方法をとるのが普通でした。それだけ風呂に使う水や燃料は貴重であったのです。銭湯での7歳以上の男女混浴が完全に禁止となったのは、明治23年になってからでした。
諸国道中 金の草鞋〈巻十〉
諸国道中 金の草鞋(わらじ)〈巻一〉
江戸時代の男湯の洗い場。江戸へ出てきた二人の田舎者が銭湯へでかけました。何も知らないため、最初は女湯へ入ってしまい、番台から注意され、次に男湯のつもりで行ったところが湯屋の台所。そんな間違いなどを面白おかしく綴っています。左で客の背中を流しているのは「三助」、番台の番頭(右)さんは膏薬を火鉢で暖めています。横にある箱には歯磨の文字も見え、江戸の銭湯の様子がよく分かります。(埼玉県立博物館蔵)

入浴時の道具 手桶、手拭、石鹸、ヘチマなど入浴時の道具
石鹸が普及するまでは、米糠を袋に入れた糠袋(右端)で体をこするのが普通でした。

浴衣、風呂敷、湯褌、湯巻
 浴衣が夏のファッションとして、若い女性の人気を集めています。しかし、浴衣というのは、本来は湯に入るときに身に付けるものであったのです。

 日本に入浴の習慣をもたらしたのは仏教でしたが、入浴はたんに体を清潔にするだけではなく、心身を清浄にする儀式のような面もありました。そのため、入浴にもきちんとした規則があったのです。そんな規則の一つに白い衣を身につけて入浴しなければならないという定めがありました。滝に打たれて身を清める人が白衣を着ているのと同じです。この着物は湯帷子(ゆかたびら)と呼ばれ、やがて浴衣と呼ばれるようになりましたが、入浴のための着物ですから、人前で着るものではありませんでした。しかし、平安時代の末頃から白衣を省略して、男は前だけを隠す湯褌を、女性は下半身をかくす湯巻(湯文字=腰巻き)をつけるようになりました。

湯褌や湯巻が使われなくなった理由としては、それらを身につけることが面倒であったということもありますが、銭湯の湯そのものが汚れているため、湯褌や湯巻を湯から上がるときに洗わなければならなかったからです。入浴用としての役目をなくした浴衣は、やがて、いろいろな模様を染めて夏用の着物として使われるようになり、いまではカラフルな色彩やデザインのユカタになっています。
浴衣と風呂敷
浴衣と風呂敷
江戸時代の中頃まで、男は湯褌(ゆふんどし)、女は湯巻を身に付けて風呂に入っていました。風呂敷はそれらを包んでもち帰るために使われたといわれていますが、昔の蒸し風呂に入るとき、体の下に敷いたものだという説もあります。


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