いまでは混浴といえば、ひなびた温泉というイメージですが、江戸に銭湯ができた頃は「入込湯」といって、男女混浴はごく当り前であったようです。幕府は風紀上の問題からしばしば混浴禁止の御触れを出したようですが、あまり効き目はありませんでした。しかも、江戸時代の中頃まで、入浴のときは男も女も入浴用の衣服を身にまとっていました。そうしたことも、混浴に対する抵抗を薄めていたのかもしれません。さらに混浴が守られなかった理由として湯女(ゆな)の存在がありました。湯女というのは、最初は入浴客の背中を流したり髪結の世話をする女性でしたが、やがて湯上がり客の酒の相手をするものも現われます。男性客の中には湯女を目的に湯へ行くものもいました。湯女を禁止すれば、当然、混浴も禁止しなければなりません。やがて「三助」と呼ばれる、客の背中を流す男性が現われます。これは湯女を禁止するために生まれた職業のようです。混浴禁止を守った銭湯もありましたが、男湯と女湯を別々に作ると水も燃料も倍になり、それだけ利益が少なくなってしまいます。そのため、男と女の入浴時間や入浴日を分け男女混浴を避ける方法をとるのが普通でした。それだけ風呂に使う水や燃料は貴重であったのです。銭湯での7歳以上の男女混浴が完全に禁止となったのは、明治23年になってからでした。 |
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諸国道中 金の草鞋(わらじ)〈巻一〉
江戸時代の男湯の洗い場。江戸へ出てきた二人の田舎者が銭湯へでかけました。何も知らないため、最初は女湯へ入ってしまい、番台から注意され、次に男湯のつもりで行ったところが湯屋の台所。そんな間違いなどを面白おかしく綴っています。左で客の背中を流しているのは「三助」、番台の番頭(右)さんは膏薬を火鉢で暖めています。横にある箱には歯磨の文字も見え、江戸の銭湯の様子がよく分かります。(埼玉県立博物館蔵) |
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