水の話
 
風呂をもっと楽しむ薬湯
入浴は身体を清潔に保つと同時に血行を促進するため、健康に欠かせません。
そこで「風呂」を使ってさらに怪我や病気を治そうというのが「薬湯」です。
冬至の日に入る柚風呂、端午の節句の菖蒲湯も、もとは薬湯からはじまったのです。

いまも残る江戸時代の銭湯の面影
 最近は風呂のない家は、まずありません。しかし、一般の家庭にも風呂場が作られるようになったのは、40~50年程前からです。それまでは、銭湯へ出かけるのが、ごく当り前のことでした。ましてや江戸時代においては、風呂のある家に住めるのは、禄高の多い武士か大商人くらいでした。武士も町人も銭湯へ出かけるのが普通でした。そんな銭湯も、現在ではしだいに姿を消して行き、スーパー銭湯や健康ランドに形を変えているようです。

家の風呂よりも銭湯の方がいいという人もいます。なによりも大きな浴槽で伸び伸びでき、体も温まるというのが理由のようです。銭湯の方が温まりやすいというのは本当でしょうか。いまでは重油やガスを燃料として使っているところが多いようです。しかし江戸時代から、解体した家屋の廃材が銭湯の燃料として使われてきました。いまもこうした木材にこだわるお風呂屋さんがいます。なぜかといえば、焚き上がったときの湯に違いがあるからだといいます。木材を燃料とした湯は重油やガスを燃料とした湯よりも「柔らかく」感じるのだそうです。例えば、人によっては同じ40度Cの湯でも、重油やガスで焚くと「熱く」感じられ、木で焚くと「ぬるく」感じられるというのです。

煙突
銭湯 燃料
高い煙突は町の銭湯のシンボルでした。銭湯の燃料も、木材、石炭、重油、ガスなど時代とともに変化していますが、木材で沸かした湯が肌に一番気持ちがいいと、いまも木の燃料にこだわる銭湯があります。(豊代湯)

 ところで、お風呂屋さんといえば、誰もが連想するのが浴槽の背後に描かれた富士山などのペンキ絵です。背景画とも呼ばれています。こうした絵は大正元年に東京のお風呂屋さんが描いたのが最初だとされていますが、江戸時代の銭湯でも、柘榴口に三保の松原、牡丹に唐獅子などの絵が極彩色で描かれていました。これらの絵こそ風呂屋のペンキ絵の起源のようです。ただ、ペンキ絵とはいっても、最近ではタイルによる壁画が多くなっています。こうしたペンキ絵やタイル画で広々とした空間を演出し、ゆったりとした気持ちにさせてくれるのもお風呂屋さんの魅力のひとつです。 銭湯

脱衣場 番台
広い脱衣所、番台の近くに置かれている清涼飲料水などの飲み物。湯上がりのひと時は、銭湯ならではのくつろぎがあります。(新名湯)

入浴効果をさらに高める薬湯
 入浴が健康にいいということは昔からいわれてきました。仏教では、入浴自体に病気を治す功徳があると説いています。仏教を深く信心していた光明皇后(707~760)が、千人の人々の垢を洗い流すとの誓いを立て、大和の法華寺に浴堂を建て施浴を行ったという立願風呂(りゅうがんぶろ)伝説があります。千人目はひどい皮膚病を患っていましたが、身体の膿を自ら吸い取ってあげたところ、その病人は仏の姿に変り、雲に乗って浴堂から消えたという話です。入浴そのものが健康に良いことを、仏教の教えとともに説いた話です。

また、日本には歴史の古い温泉がたくさんあり、それらの中には、鹿、熊、鷺など動物の名がついた温泉もあります。猟師や木こりなどが、怪我をした動物の後を追って見つけたという伝説からそうした名がつけられたようです。人も怪我や病気を治すためにそれらの温泉を利用したことでしょう。そこで温泉の湯そのものを取り寄せるか、浴槽の中に「湯の花」を入れるならば、同じ様な効能が得られると考えるのは当然です。鎌倉時代初期には、温泉水を牛車で運ばせて入浴していた公家もいたようです。あるいは、植物には薬となるものがいろいろあります。それらを入れた湯につかることによって怪我や病気を治すということも、かなり古くから行われてました。こうした温泉成分や植物などをいれた湯を、薬湯(くすりゆ)と呼んでいます。薬湯はいつ頃から行われるようになったのでしょう。


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