水の話
 
地下水に求められる清らかな世界

無垢なものが生まれる世界
 奈良で清浄な水が求められていたとして、何故、若狭の水でなければならなかったのでしょうか。
お水送りを行なう神宮寺は寺でありながら神の名前が付いています。ここは神と仏が一緒になった神仏混淆(しんぶつこんこう)の寺で、本尊の横には神様が祀られています。こうした祀り方をする寺は現在は全国でも神宮寺だけですが、実は明治時代の神仏分離が行なわれるまでは、ごく一般的な形式だったのです。
奈良時代まで日本では権力闘争が続き、政権は必ずしも安定した状態ではありませんでした。そこで、政情を安定させるため、仏教を国の宗教として広めることに力が入れられました。こうした中から、神仏混淆の考え方が生まれてきたのです。神宮寺には仏教だけでなく、神教的な考え方も取り入れられました。
神宮寺の本堂
神宮寺の本堂には仏様と神様が一緒に祀られています。

北の水に求められた清浄性
 いまでも東北の方位を鬼門とする考え方があります。太陽は東から昇ります。つまり、日の出より前に当たる世界が東北の方位であり、新しい命が生まれてくる直前の世界になるのです。さらにそれより前の全くの手付かずな無垢な世界も想定されます。それが北の方位です。
若狭から奈良を結ぶ南北につならる線をさらに南へと延ばしていくと、火祭で知られる熊野神社へとつながります。あらゆるものはいつかは汚れます。その汚れを浄化するのは火なのです。
山から湧き出た清らかな水でさえ、やがては汚れてしまいます。それを浄化してくれるのも火なのです。例えば、汚れて海へと注いだ水は蒸発して雲となり、再び汚れを知らない水として地上へ降り注ぎます。汚れた水を蒸発させるのは、太陽という火に他ならないのです。若狭から奈良へ水が送られる理由はここにあったのです。都から見て清浄な世界となる北に位置し、しかも清らかで汚れのない水。「水は方円の器に従う」といわれるように、どのような形にも姿を変えることができるのです。若狭の水は無垢なるものの象徴であったのです。
山と川


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