大野市は、いまから400数十年前に織田信長の家臣・金森長近が城下町を築いたのが始まりです。それまでは、点在するそれぞれの湧水池の周りにいくつかの村が作られていましたが、その村々を一箇所に集めたのです。新しく町を作るため、最初に取り組んだのが、生活用水の確保でした。
大野市の地下水は地下水位が高いので、低地となったところからは自然に水が湧き出します。そこで、もともとあった湧水池をさらに掘り下げ、よりたくさんの水を確保して、その水を町用水として城下町に流しました。町用水はいまでいう上水道で、飲料水としてはもちろん、生活用水、防火用水、そして冬には消雪用水としても使われてきました。一方の生活雑排水は、各家の裏手に背割水路と呼ばれる下水を作り流しました。町用水の水源となった清水(しょうず)は「本願清水」と呼ばれ、大野市の中では一番大きな湧水池となっています。ここは清滝川によって形成された扇状地の伏流水が湧き出る池で、城下町が築かれたときに掘り下げて作られたといわれています。かつては水深が2メートルほどあり、透き通った水を湛えていましたが、一時は水が涸れかけてしまいました。しかし、いまでは整備されて大野市の観光名所の一つにもなっています。また、本願清水は国の天然記念物に指定されているイトヨの生息地としても知られています。
戦国の武将、朝倉義景の墓所の前にあるのが「義景清水」です。昔ながらの木を刳り貫いて作られた臼から、水が湧き出しています。こうした清水が市内には21か所も残されています。そうした中で、環境省の名水百選に指定され、いまも市民に利用され親しまれているのが「御清水(おしょうず)」です。かつて城主の米を炊くのに使われたので、殿様清水とか御清水と呼ばれたのです。江戸時代、御清水があったあたりは武家屋敷が建ち並び、武家の生活用水として使われていました。武家屋敷の人々はとくに清水を清潔に保つことに厳しく、上流から飲料水、果物などを冷やす場所、野菜の洗い場が不文律として定まっていました。明治以降、誰もが自由に御清水を使えるようになりましたが、この不文律だけは守られています。御清水も何度か改修され、いまでは市内で最大規模の清水となり、水地蔵尊も祀られ、人々の水を大切にしたいという気持ちが伝わってきます。
ところが、町用水にはいつも清浄な水が流れていたとは限りませんでした。冬になると道などに積もった雪の捨て場所としても使われました。そのため、多量の雪を一度に入れて、下流の家に思わぬ水害を与えることもあったようです。また、町用水へゴミを捨てる不届き者も現われます。汚さぬよう大切に扱ってきた町用水に対する人々の意識が変化したのは、城下に人が集まることによって管理が十分行き届かなくなったことに加え、井戸掘り技術の発達で、多くの人が自家用井戸を持ったことなどが考えられます。
清水は生活のための水として使われるだけではありませんでした。篠座(しのくら)神社にある弁天池の自噴水は、目の病に効く霊水だとされてきました。薬師堂の湧水も目の病に効くとの言い伝えがあります。町にある白山神社には「かわそさん」と呼ばれる河濯(かわそ)権現が祀られています。河濯の神はもともとは水の神で、女神だとされています。もう一つ、大野市の願成寺にも河濯さんが祀られています。こちらは女神であることが強調され、いまでは女性の病に霊験があるとされています。 |
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大野市の背割水路。400年前に城下町が作られたとき、最初に整備されたのが背割水路と呼ばれている下水です。 |
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大野市で最大規模を誇る本願清水。天然記念物として知られるイトヨの生息地としても有名です。 |
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朝倉義景公の墓地のある一帯も湧水地として知られ、ここには義景清水があります。池の中には水源となる臼が二つあり、一つは昔のままの木で作られています。 |
清水は近くを流れる川の水源の一つにもなっています。 |
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