かつては、名古屋市南部の海岸だけでなく、名古屋の南に位置する知多半島や愛知県の三河湾に面した吉良町、一色町でも塩がつくられていました。吉良町は赤穂浪士の話で有名な吉良上野介の領地で「饗庭(あいば)塩」の名で呼ばれる良質な塩が生産されていました。ここでは昭和47年まで塩がつくられていました。吉良町でつくられた塩も各地へ運ばれました。舟に積み込まれた塩は三河湾に注ぐ矢作川を遡り、徳川家康生誕の地として有名な愛知県の岡崎へ運ばれ、一部の塩が下ろされました。岡崎は八丁味噌の生産でも全国的に知られています。味噌づくりに塩は欠かせません。味噌づくりなどに必要な量を下ろした塩は、さらに支流の巴川を進み、九久平(くぎゅうだいら)という川湊で荷下ろしされ馬の背に積み替えられました。この近辺の道は「吉良街道」「足助(あすけ)街道」「岡崎街道」など塩が運ばれた道がさまざまな名前で呼ばれています。一般に、街道の名称は目的地の名前をそのままかぶせて使われることがよくあります。例えば名古屋・岡崎間の街道は、名古屋からは「岡崎街道」、岡崎からは「名古屋街道」といった具合に呼ばれます。同じ名前の道であっても、地域によって別の道を指す場合もあります。その逆に、同じ一本の道であったとしても、区域ごとにいくつもの名前に別れて呼ばれる道もありました。
全国に、塩の道と呼ばれる道がたくさん残されています。いずれの道もその地域では、別の名前をもっています。塩が運ばれた道ということから名付けられたのですが、決して塩だけが運ばれた訳ではありません。ただ、塩の道の共通点は、海から山へと続く道がほとんどだということです。
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忠臣蔵で知られる吉良上野介の領地・吉良は、良質な塩の産地としても有名でした。吉良町歴史民俗資料館では塩田を復元し、一般公開しています。
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