水の話
 
海から山へ続く塩の道

海へ帰ると信じられていた塩
 塩は山間部で生産することができません。まさに海からの贈り物です。塩は大事に扱われていたはずです。昔の人には、こぼれた塩は泣きながら海へ帰っていくと考えられていました。また、地方によっては塩気のあるものを捨てるときは、必ず水の流れがある場所へ捨てるとか、塩をこぼしたならば、その上に水をかけるという風習のところがありました。全ての塩は水の流れと一緒になり、最後は海へ帰ると考えられていたからです。しかし、こうした話が今も残されている地域は、ほとんどないようです。塩の有り難みを感じなくなったからでしょうか。
ところで、塩は食用に使われるだけではありません。相撲の力士が土俵に撒いたり、仏教ではお葬式から帰ったときに塩を体に振り掛けて浄めるということが多くの宗派で行われています。また、飲食関係のお店の門前に塩を盛っている光景もよく見かけます。塩は生命を維持するための大事なもの、という以外に、昔の人は塩に何か不思議な力を感じていたようです。ただ、盛り塩に関しては、中国の故事に由来するとの説もあります。昔、秦の始皇帝は3,000人の婦人を擁していましたが、その中の一人の女性が牛車に乗った皇帝に毎晩訪れてもらおうと、自分の部屋の前に塩を盛ったという故事に習い、客に訪れてもらうため店の前に塩を盛るようになったと言われています。

山浪を超えて運ばれた塩
 塩の道には中馬(ちゅうま)街道と呼ばれる道もたくさんあります。中馬とは、農家が農閑期を利用して農耕馬を使い駄賃(だちん)稼ぎのために荷の運搬を行ったところから、駄賃馬(だちんうま)が縮まり賃馬(ちんま)となり、さらに中馬に訛ったとも、昔の中国の道の広さとして大馬、中馬、小馬があり、そこからきたともいわれています。ただ、中馬街道と呼ばれる道は、幕府が定めた五街道や各藩によって整備されたいわゆる官制の道ではなく、いわば庶民が利用するための道でした。
足助で荷直しされた塩は愛知県から伊勢神峠や杣路(そまじ)峠などを越え長野県の飯田方面へと運ばれました。海をもたない伊那谷で消費され、さらに一部は塩尻方面へと送られたのです。水が川の流れとなり海へと注ぐのとは反対に、海からの恵みである塩は山へと届けられたのです。
塩の道 馬頭観音
かつての塩の道と苔むした馬頭観音。塩を積んだたくさんの馬が、この険しい山道を行き交ったのです。

交差点 岐阜県明智町の南北街道と中馬街道との交差点。南へは名古屋や三河方面へと続く道が延び、北へは信州塩尻へ、西に向えば中山道、東へ向えば信州飯田へと続く道がここで交わっていました。
馬宿 岐阜県上矢作町には、人と馬が一緒に休んだ「馬宿」といわれるところが今も残っています。
馬のための水飲み場
湧き水を利用した馬のための水飲み場も、街道の途中に何か所かつくられていました。


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