塩の道には中馬(ちゅうま)街道と呼ばれる道もたくさんあります。中馬とは、農家が農閑期を利用して農耕馬を使い駄賃(だちん)稼ぎのために荷の運搬を行ったところから、駄賃馬(だちんうま)が縮まり賃馬(ちんま)となり、さらに中馬に訛ったとも、昔の中国の道の広さとして大馬、中馬、小馬があり、そこからきたともいわれています。ただ、中馬街道と呼ばれる道は、幕府が定めた五街道や各藩によって整備されたいわゆる官制の道ではなく、いわば庶民が利用するための道でした。
足助で荷直しされた塩は愛知県から伊勢神峠や杣路(そまじ)峠などを越え長野県の飯田方面へと運ばれました。海をもたない伊那谷で消費され、さらに一部は塩尻方面へと送られたのです。水が川の流れとなり海へと注ぐのとは反対に、海からの恵みである塩は山へと届けられたのです。 |
|
|
かつての塩の道と苔むした馬頭観音。塩を積んだたくさんの馬が、この険しい山道を行き交ったのです。 |
|