塩が運ばれていたこれらの道は「塩の道」と呼ばれていますが、塩だけが運ばれていたわけではありません。塩は交易の品々の中の一部でしかなかったのです。それにも係らず塩の道という名が一般化しているということは、それだけ塩が重要であったということです。
塩は英語でソルトといいますが、その語源はラテン語のSalで、海を表す言葉でした。江戸時代、日本では武士の俸給が米であったように、ヨーロッパでも古い時代には塩が俸給として使われ、そこからサラリーという言葉が生まれたといわれています。
さて、足助には各生産地の塩が、麦の俵に詰められて運ばれてきました。産地によって塩の質も一俵の重さも異なっていました。足助から先は山道が続きます。馬の背に乗せて運ぶため、丈夫な稲俵に均一な重さになるよう詰め直すと同時に、すべての塩を混ぜ合わせて、同じ品質の塩にしました。そして「足助塩」の名前がつけられて信州に運ばれたのです。ところが、名前は足助塩であっても、足助で塩の値段は決められませんでした。塩の値段は産地と消費地の塩問屋との間で決められていました。塩の権益は問屋が握っていたのです。塩は生活に欠かせないものであるため、一部の商人だけで塩の価格を決められるという権益を握れば大きな利益を得られたのでしょう。 |
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塩の産地から山国へと塩を運んだ道を「塩の道」と呼んでいます。信州方面や三河方面から信州へと続く塩の道の途中にある足助町には、塩を扱っていた問屋などがたくさんありました。 |
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