水の話
 
海から山へ続く塩の道

数千年の昔から運ばれていた塩
 愛知県のほぼ中央部に、かつて塩運搬の重要な中継地の役割を担っていた足助町があります。戦国時代には、足助地方を領有していた鈴木氏によって山城が築かれました。江戸時代になって廃城となりましたが、その後も足助は太平洋側と信州とを結ぶ交通の要衝の地として栄えました。
 ここを通る道は、いまでも飯田街道や塩の道の名前が使われています。江戸時代に塩が運ばれた交易の道でもあったからです。しかし、戦国時代には信州の武田信玄が軍事的に重要な道として使っていました。いつ、だれがこの道をつくったのかは分かりません。ただ、この道沿いにある縄文初期の遺跡からは、九州や山陰、長野県など限られた地域でしか産出されず、石のナイフなどとして使われた黒曜石が発見されています。何千年も前から、交易の道として使われ、おそらく塩も運ばれていたことでしょう。

重量と品質を均等に直して山道へ
 塩が運ばれていたこれらの道は「塩の道」と呼ばれていますが、塩だけが運ばれていたわけではありません。塩は交易の品々の中の一部でしかなかったのです。それにも係らず塩の道という名が一般化しているということは、それだけ塩が重要であったということです。
 塩は英語でソルトといいますが、その語源はラテン語のSalで、海を表す言葉でした。江戸時代、日本では武士の俸給が米であったように、ヨーロッパでも古い時代には塩が俸給として使われ、そこからサラリーという言葉が生まれたといわれています。
 さて、足助には各生産地の塩が、麦の俵に詰められて運ばれてきました。産地によって塩の質も一俵の重さも異なっていました。足助から先は山道が続きます。馬の背に乗せて運ぶため、丈夫な稲俵に均一な重さになるよう詰め直すと同時に、すべての塩を混ぜ合わせて、同じ品質の塩にしました。そして「足助塩」の名前がつけられて信州に運ばれたのです。ところが、名前は足助塩であっても、足助で塩の値段は決められませんでした。塩の値段は産地と消費地の塩問屋との間で決められていました。塩の権益は問屋が握っていたのです。塩は生活に欠かせないものであるため、一部の商人だけで塩の価格を決められるという権益を握れば大きな利益を得られたのでしょう。
問屋
塩の産地から山国へと塩を運んだ道を「塩の道」と呼んでいます。信州方面や三河方面から信州へと続く塩の道の途中にある足助町には、塩を扱っていた問屋などがたくさんありました。

問屋
問屋
足助町の中にいまも残る中馬街道。

足助町は交通の要衝の地でした。今も街道を示す道標が残っています。
問屋
山あいの巴川の両岸にみえる足助町の町並み。


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