鳥羽港から定期船で15分ほどのところにある答志島は周囲約26キロ、面積約7平方キロの小さな島です。島には3つの集落があり、約3,000人、770世帯の人々が暮らしています。
答志島には、かつて九鬼水軍の名を轟かせた九鬼嘉隆が葬られた首塚と胴塚があります。九鬼嘉隆は、戦国の武将織田信長、豊臣秀吉に仕え、強力な水軍を育てあげました。当時の軍船の代表が安宅船でした。朝鮮戦役のとき豊臣秀吉は、九鬼嘉隆に命じて建造させた安宅(あたけ)船を見て日本一の軍船であると賞賛し「日本丸」の名を与えたと言われています。
九鬼一族は、もともと志摩周辺の海を本拠とする海賊でした。鳥羽は太平洋側における重要な港でした。鳥羽を出港すると、黒潮洗う太平洋です。昔の船は風を動力としていました。凪(な)いでいれば船は進みません。海が荒れれば難破します。太平洋側を航行する船は、一旦は鳥羽の港に停泊し、水や食糧を補給するとともに、安全でスピーディーに航海できる日和を待ったのです。しかし、鳥羽の港に着く前に、嵐に遭遇する船もありました。嵐の夜、海賊たちは山の上でいくつかの松明を燃やしました。嵐の中を進む船は、松明(たいまつ)の明かりを村の灯だと思い、海岸に近付きます。しかし、この辺りの海岸は複雑に入り組んだリアス式海岸を形づくっています。岩礁に乗り上げ難破する船もありました。
運悪く座礁した船は、翌朝になると海賊たちによって積み荷を奪われてしまいます。難破した船は修理して使えるならば修理します。しかし、使えそうもなければ薪などにされてしまいました。九鬼氏はもともとそんな海賊の一つであったのです
答志島の東にある小高い山の上からは伊勢湾が一望できます。大型コンテナ船、漁船、島々を結ぶ定期船、観光遊覧船など、大小さまざまな船が行き交います。入り組んだ入り江は海賊たちにとって船とともに身を潜め、獲物を待ち受けるには格好の地形だったように思われます。
海賊からやがて日本一の水軍を率いる大名となった九鬼氏も、この海で縦横無尽に船を走らせていたのでしょうか。海を見渡せる山の上に、九鬼氏の大将九鬼嘉隆の首塚があります。関ヶ原の戦いで西軍に味方した嘉隆は自害します。その首は徳川家康の検分を受けるため、伏見に送られたあと、この地に葬られたのです。首塚から少し離れた場所には、胴を葬った胴塚があります。
答志島の近くにある人の住む離島は菅島、坂手島です。島の周りには、小さな無人島がいくつも点在しています。本土からそれほど離れているわけではありません。海賊たちはこれらの島々を大いに利用したことでしょう。 |
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わずかに開けた平地につくられた、答志島の畑。谷間となっているため、周辺の山からの湧き水でできた小さな川もありました。 |
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