水の話
 
水を大切にする人々
「歌島は人口千四百、周囲一里に充たない小島である」。
こんな書き出しで始まる三島由紀夫の小説「潮騒」が発表されたのは、昭和29年です。
歌島のモデルとなった伊勢湾の入り口に浮かぶ小さな島「神島」は、現在も50年前の島の様子を伝えています。
いまでは、本土から神島まで上水道が敷設され、昔のように水を得るための苦労はなくなりました。
それでも島の人たちはいまも水を大切にしています。

不思議な祭を現代に伝える神島
 鳥羽市域には答志島よりもさらに小さな離島が含まれています。周囲3.9キロ、面積0.76平方メートル、約200世帯、500人余が暮らす神島です。答志島周辺の島々が本土のすぐ近くに位置しているのに対し、神島は伊勢湾の入り口のほぼ中央にぽつんと離れて浮かんでいます。
神島という名前から、何か特別な存在であったのではないかと思わせます。鳥羽市街や答志島の方向からは、甲羅から首をひょっこりと伸ばした亀の姿にも、横に倒した瓶の形にもみえてきます。そしてカメ島が訛り神島になったといわれています。ところで、三島由紀夫の小説では神島を歌島と呼んでいますが、実際に、昔は歌島と呼ばれていたこともあったのです。答志島ではかつて神島をガ島と呼び、それがカ島となり、カと同じ発音の歌の字が当てはめられて歌島となったようです。また、伊勢神宮に保管されている1,200年前の資料の中に、神島の字が見られます。
地方には、いまもお互いの家を「屋号」で呼び合うところがあります。屋号というのは、苗字に似ていますが、それぞれの家そのものに付けられた名前で「大津屋」などのように、最後に屋のつくのが一般的です。ところが神島では「又左衛宮」のように、屋の代わりに「宮」の付く屋号の家が何軒も残っています。こうしたところからも、神に関連した職業に就く人たちがたくさん住んでいたようにも思われます。
また、神島では正月にゲーター祭という珍しい祭が行われます。グミの木を束ねて直径2メートルほどの白い紙で巻いた輪をつくります。何人もの男たちがこの輪の中に竹を差し込み空高く持ち上げて、地面にたたき落とします。輪は日輪(太陽)を意味します。たたき落とすのは「天に二つの日輪なく、地に二皇あるときは世に災いを招く、もし日輪二つあるときは、神に誓って偽りの日輪は是の如く突き落とす」という意味から来ているそうです。
一説によると二皇とは南朝と北朝に分かれた朝廷を意味しているといわれ、神島が何らかの形で南北朝の戦いに関係したのではないかといわれています。この祭が正月に行われるということは、旧暦に直せば冬から春へと向かう時期に行われるということです。そこで太陽の復活を願う気持ちを表しているともいわれています。ゲーターが何を意味する言葉かは定かではありませんが、この祭は、もともと太陽信仰から発生したようです。
ゲーター祭 太陽信仰から発生したといわれるゲーター祭。「アワ」とよばれる白い輪が太陽を表現しているとされます。祭は元旦の夜明けに行われます。アワが高く持ち上がれば上がるほど、その年は豊漁になると信じられています。祭の後、アワは214段の石段の上に建つ八代神社(下)に奉納されます。(左写真提供/鳥羽市)
八代神社

島の風景

太陽の道の東に位置する島
 日本の古代史には、まだ多くの謎が秘められています。古事記や日本書紀にも登場する奈良県の三輪山は北緯34度32分に位置しています。この緯度に沿って西へ向かえば奈良県の箸墓(はしはか)古墳、堺市の大鳥大社、淡路島の伊勢久留麻(くるま)神社へと、東へと向かうと奈良県の春日宮天皇妃陵、三重県の斎宮(さいくう)へと続きます。これらの遺跡は日本の古代史と関係が深いものばかりです。この線上には他にも多くの遺跡があり、しかも太陽信仰と何らかの関係があったといわれています。そして、神島はこの線の東の端に位置します。この線を太陽の道と呼んで研究している人たちもいます。
こうしたことから、神島と古代史の謎との関係を指摘する人もいます。史実はともかく壮大な古代のロマンを感じます。神島はカメ島から変化したのではなく、昔から神島であったのかもしれません。かつて、島からは1万年以上前のものとされる矢じりも出土しています。
勾玉、矢じり、土器、陶器
神島からは勾玉、矢じり、土器、陶器が出土しています。


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