水の話
 
総延長150km、55本の用水
兼六園には日本最古とされる噴水があります。噴水脇の坂道を登ると園内の霞ケ池にたどり着きます。池に流れ込むせせらぎの水量はかなり豊かです。庭園からは眼下に金沢市が見下ろせます。山の上に川が流れているような不思議な光景です。兼六園の水源は1632年(寛永9年)に完成した辰巳用水でした。

台地の上に築かれた城
 金沢市の年間降水量は約2,500mmです。日本の平均降水量に比べるとかなり多い方です。冬の降雪量が降水量を増やしているのです。水が多ければ水不足で苦労することはないように思われますが、市内には主だったものだけで55本、総延長150kmにも及ぶ用水が張り巡らされています。
金沢は城下町としてつくられました。金沢城の前身は加賀一向一揆の拠点となっていた本願寺金沢御堂(みどう)です。1580年(天正8年)織田信長の武将佐久間盛政が金沢御堂を攻め落とし、その場所に尾山城を築きました。そして1583年(天正11年)に前田利家が入城し、当初は尾山城と金沢城という2つの名前が使われていましたが、やがて金沢城となり金沢は城下町として発達していきました。
金沢城は東西を浅野川と犀川に囲まれた小立野(こだつの)台地の先端部分に築かれています。台地の下では容易に使える水も、台地の上では簡単に利用することはできません。水の確保には大変な苦労が必要でした。
石川門と菱櫓
金沢城は本丸をはじめ城の大部分が1631年(寛永8年)の火災で焼失しました。その後再建されましたが1759年(宝暦9年)の大火で再び焼失しました。現存する石川門は金沢城の数少ない遺構の一つで、1788年(天明8年)に再建されたものです。(写真は石川門と菱櫓)

兼六園の噴水
兼六園の噴水。上にある霞ケ池を水源として、自然の水圧を利用しています。日本で最も古い噴水といわれています。


多目的に利用されてきた用水
 前田利家が金沢城へ入城した当時はまだ城としては十分には完成しておらず、堀や石垣が未整備の状態でした。もちろん、城下町としても十分に整備はされていませんでした。現在では用水の一部となっている内惣構堀(うちそうかまえぼり)がつくられたのは利家が死去した年でした。現在では市内に総延長150kmにも及ぶ用水が流れていますが、この頃に大野庄用水がつくられました。この用水は灌漑用、防火、融雪、防衛などさまざまな目的をもっていました。もちろん資材運搬用の水路としても使われ、城を建設するためにも大きな役割を果たし、その後も木材の運搬用などに利用されてきました。
大野庄用水と三社用水の分流地点に三社水閘(さんじゃどんど)と呼ばれる水門があります。2つの用水にある水門を操作して水位を上げ下げすることにより、筏で運ばれた資材を陸揚げする仕掛けです。また、古道木揚場は鞍月用水と合流してすぐに樋俣(ひまた)用水と木曳川に分かれますが、ここも木材を陸揚げしていた場所です。
金沢は加賀友禅が有名です。浅野川では友禅流しが行なわれていますが、大野庄用水も友禅流しに利用されていました。大野庄用水は犀川の水を取り入れています。取水口から2kmほどのところに長町武家屋敷群があります。武家屋敷の土塀が用水沿いに並び、いかにも金沢らしい景観を呈しています。土塀の下の石垣には、ところどころに四角い取水口と排水口が見えます。取水口から取り入れられた水は、武家屋敷内の庭につくられた曲水に利用されているのです。

三社水閘 古道木揚場 武家屋敷の庭
三社水閘。水位の違う2本の用水が交わるところに設けられた水門です。こうした施設によっても用水が重要な水運であったことが分かります。 三社水閘の近くにある古道木揚場。ここは木材が陸揚げされていた場所です。 用水の水を武家屋敷の庭へ引き、曲水としても利用されています。

大野庄用水
大野庄用水
長町武家屋敷を流れる大野庄用水。土塀が江戸時代の風情を今に伝えています。土塀の下にある四角い穴は曲水として庭へ水を引くための取水口です。


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