水の話
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総延長40万kmにも及ぶ日本の疏水

灌漑以外の目的もあった疏水

 疏水百選をはじめ、各地にある疏水の歴史を見ると、江戸時代から昭和にかけてつくられたものがたくさんありますが、日本三大疏水はいずれも明治時代になってからつくられています。
江戸時代になると、各藩は農業を奨励します。干拓や開拓事業が盛んになり、それまで荒野とされていたところが農地へと生まれ変わっていきました。新たに疏水がつくられたほか、古くからあった疏水は改修されました。明治になってからも干拓や開拓が行なわれます。大都市であっても比較的海に近い場所に新田の名前が付いた地名があります。その多くは江戸時代から明治にかけて干拓された名残です。食糧の増産や安定供給を行なうには、広い土地の確保と同時に安定した水の供給が不可欠であったからです。
明治になってからつくられた疏水は、必ずしも灌漑だけを目的にしたものではありません。明治政府は殖産興業の経済政策を打ち出します。国家の近代化を目指し、西洋の技術を盛んに取り入れて鉄道、鉱山開発、製糸や製鉄をはじめとした工業を推進します。ものをつくる時に水は欠かせません。生産量が増えれば、使用する水は増加します。さらに原料や製品を大量輸送する必要が出てきます。鉄道や自動車交通が発達する前はこうした輸送手段としての運河もつくられましたが、疏水にも運河としての役割を担うものがありました。物を運べるのならば、当然人も運べます。山の向こうの目的地へ出かけようと思えば、険しい峠道を歩かなければならなかった人々にとって、舟ほど楽な乗り物はなかったのです。
人々の暮らしと密接な関係をもっていた疏水ですが、新たに開発された土地は人口の増加によって宅地や商業地、あるいは工業地などに姿を変えていきました。同時に疏水の役割は薄れ、埋め立てられたり暗渠化されていくものもありました。


住宅地
かつて疏水によって恩恵を受けた農地も、農業形態の変化などによって住宅地へと変わっています。


変化してきた疏水の価値

 明治時代以降に多くの疏水がつくられたのは、積極的に西洋の土木技術を取り入れたことも理由の一つでした。日本三大疏水の一つである安積疏水はオランダ人技師の指導によってつくられましたが、那須疏水と琵琶湖疏水は外国人技師に頼ることなく日本人の手でつくられています。
疏水は自然の川とは異なり、人工的につくられた水路です。当然、水の流れていなかった場所に新たに水を流すためには、様々な工夫が凝らさなければなりません。川から水を引く場合には、季節による水位変動にも対応できるように頭取口をつくり、目的地への途中に山があれば水路としてのトンネルを掘りました。分水も必要です。高低差の大きなところでは、舟を通すための閘門(こうもん)も設けられます。他の川と交差する場所では水路橋もつくられました。これらの工夫にはそれまでの日本の技術だけではなし得なかったことがたくさんあったのです。だからこそ、疏水の中のいくつかは日本の近代化遺産としても保全されています。
ただ、疏水の持っていた本来の役割が失われていくとともに、疏水の意味も変わっていきます。とくに灌漑を主として使われてきた疏水は、農業形態や農業従事者の高齢化などによって維持管理が困難となっています。そうした中で疏水の保全を通して新しい価値を見いだそうという動きがあります。歴史的な文化遺産として、あるいは美しい景観としての価値といったことも含まれます。


那須疏水
那須疏水は那珂川と鬼怒川の間を結ぶ運河として計画されましたが、鉄道や国道の整備によって灌漑用、飲料用に変わりました。現在、幹線、支線を合わせた水路延長は333kmにも及んでいます。
(写真提供:那須野ヶ原土地改良区連合)

辰巳用水
疏水の目的は時代とともに変遷し、文化財としての価値を持つようになったものもあります。石川県金沢市内を流れる辰巳用水は、伝統ある街の景観にとって、なくてはならない存在になっています。


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