水の話
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水によって復興した都

琵琶湖の水で走った日本最初の電気鉄道

 琵琶湖疏水をつくった目的は水による街の復興でした。インクラインの動力として、当初は水車が考えられていました。日本では水車といえば農村での粉挽きなどに使われる水車のイメージが一般的ですが、18世紀からイギリスで始まった産業革命で動力源として最初に使われたのは水車でした。そして18世紀の後期に蒸気動力が出現すると、水車は蒸気動力に取って代わられ、さらに電力にその役割を渡します。ただし水車も蒸気も、発電機を回すための動力源としては現在も重要な役割を持っています。
日本の場合は水車動力や蒸気動力が工業の発展に果たした期間は少なかったようです。琵琶湖疏水を利用した発電計画がつくられたのは、疏水工事が始まった後でした。疏水事業の主任技師であった田邉朔郎(たなべさくろう)らが、水利用についてアメリカに視察へ出かけ、それで水力発電建設が決まったのです。蹴上発電所が完成をしたのは明治24年(1891年)、インクラインの動力源としてはもちろん、京都市内の時計工場、紡績工場などの動力源として供給されました。さらに明治28年(1895年)に開通した日本最初の電気鉄道(京都電気鉄道伏見線)にも使われたのです。こうした電力のおかげもあって京都は再び大きく発展したのです。いまも第1疏水を使った発電が行なわれています。



古都ふさわしい景観を作り出す疏水
 当初は幹線として計画された疏水経路ですが、舟運の関係で変更になった部分があります。その水路は疏水分線と呼ばれています。疏水分線は蹴上で幹線水路から分かれて再びトンネルに入り、南禅寺境内を横切ります。境内には水路閣と呼ばれる長さ93m、赤煉瓦でつくられた水路橋が架かっています。古代ローマ帝国時代の水路橋を思わせるアーチ型で、古都の風景に溶け込んでいます。疏水分線の流れは哲学の道の主役となって流れています。平安神宮の境内にも導かれています。
疏水による京都の産業振興は見事に成功しました。しかし舟運はなくなりました。灌漑用水としての利用も大きく減少しています。疏水による衛生上の問題も役目を終えています。いまも発電用に使われてはいますが、その量はそれほど多くはありません。防火用水としての役目も残ってはいますが、むしろ街の美しさを引き立てるとともに、人々に安らぎを与えるものとなっています。それでも琵琶湖疏水は古都京都になくてはならない存在となっています。京都市の上水道のうち98%は琵琶湖疏水によって供給されています。さらに疏水のつくり出す景観に、多くの人が憧れ、京都を訪れています。疏水の源は琵琶湖です。琵琶湖を大切にすることは日本を代表する古都を大切にすることにもなるのです。

水路閣 水路閣
琵琶湖疏水は蹴上で一部が分水され、南禅寺境内を水路閣と呼ばれる水路橋の上を通って流れます。水路閣の先の水路沿いには哲学の道として多くの人に親しまれている散策路があります。


疏水
蹴上の舟溜のあった場所の横には琵琶湖疏水記念館があり、疏水についての様々な展示がしてあります。また疏水に沿って美術館や動物園があり、市民に親しまれています。


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