水の話
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清流ルネッサンスで清流を取り戻す試み
水は透き通っています。手を浸してみてもそれほど冷たくはありません。川底の砂の上には大小様々な大きさの石が転がっています。石をひっくり返すと、小さな魚がいました。ヨシノボリの仲間のようです。かつて白濁していた矢作川は甦ったのです。

30年前に比べ改善された川の汚れ
 川の水がきれいになった証として、アユやサケの遡上がニュースでしばしば取り上げられます。水の汚れを表す指標にBODがあり、水がきれいなほど数値は少なくなります。アユやサケが生息できる目安となるBODは3mg/L以下とされています。
国土交通省が全国の一級河川の水質についてまとめるようになったのは昭和46年(1971年)でした。全国的に深刻化する川の汚れが社会問題となりつつあったころです。その当時、BOD平均値が5mg/Lを超え、水質改善が急務とされた地点は全調査地点のうち27%にも達していました。全国の一級河川のうち3分の1近くの川が、アユやサケが生息できなくなるほど汚れていたのです。
その後、環境に対する意識が徐々に高まり、国や自治体も河川の水質改善に取り組むようになっていきました。近年の調査ではアユやサケがすめるとされるBOD非超過確率75%値が3mg/L以下の地点は90%以上になっています。BODの値は季節や水量によって変動します。そこで測定したデータを数値の低い順から並べ、全データの75%がそれ以下になる値をBOD非超過確率75%値といいます。つまり毎月測定をした場合、12カ月のうち9カ月分の数字が75%に当たります。


藻
中流域の川の中には人の頭ほどの石があり、よく見るとアユのエサとなる藻もたくさんついています。水がきれいな証拠です。

中流域から上流域にかけての矢作川
中流域から上流域にかけての矢作川。川底の岩や周囲の森など自然の川の風景を見ることができます。


川が汚れ出した
 矢作川の水が汚れ始めたのは、1960年代の日本の高度経済成長期の頃でした。矢作川流域の都市に多くの工場が集まってきました。人が集まれば山林が切り開かれて宅地開発も盛んになります。   
矢作川の中流域に当たる豊田市の丘陵部では陶土も産出します。切り開かれた山林からは雨が降るたびに表層土が泥水となって流れ出しました。また工場や人家からの排水も河川を汚し、農業に被害を与えました。川の汚れで中流域のアユも激減しました。さらに三河湾での海苔養殖やアサリ漁にも大きな害を及ぼすようになっていきました。
農業団体である明治用水土地改良区が水質分析室を作り実態の把握に動き出しました。農業団体のような機関が水質分析室を設置したのは全国でも初めてのことでした。こうした動きに合わせるように、きれいな川を取り戻そうという動きが農業者や漁業者を中心に、矢作川流域に暮らす人々の間に広がっていきました。
矢作川下流の6つの農業団体、7つの漁業団体、6つの市町が一緒になって「矢作川沿岸水質保全対策協議会」(矢水協)が昭和44年(1969年)に設立されました。矢水協は汚れた川の実態を知ってもらうため、積極的に水質調査に乗り出しました。
水質調査は困難を極めました。廃水を垂れ流している工場は、調査の情報を事前にキャッチすると廃水を止めてしまいます。そして昼間の操業で溜った廃水を夜陰に乗じて川へ流すようになりました。排水口の多くは川に面した斜面などに作られていました。そうした場所のなかには川の中からしか近づくことができない場所もありました。
矢水協の水質パトロール隊は、深夜になるのを待ち、廃水を採取することもあったため「ふくろう部隊」といわれました。危険を顧みずにデータを集め、関係官庁に訴えました。
この当時は環境よりも経済成長が重要と考えられていました。苦労して集めたデータを基にして矢作川の現状を訴えても、なかなか耳を傾けてはもらえませんでした。それでも矢水協は諦めることなく独自の水質調査を積み重ね、ことあるごとにデータを公表し続けました。昭和46年(1971年)水質汚濁防止法が制定されます。そして翌年には全国で初めて、この法律を基に矢作川を汚していた土砂採掘業者が告発されました。

排水口からの汚水を採取   工場廃水や生活排水
昭和40年代の矢作川は未処理の工場廃水や生活排水によって死の川に近い状態でした。矢水協のパトロール隊はそんな川の中に入り、排水口からの汚水を採取し、矢作川における汚染の実態を訴え続けました。(写真提供:矢作川沿岸水質保全対策協議会)


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