左:豊かな源兵衛川の水を使って、洗濯をする昭和30年頃の三島市の主婦。川に沿うように家が建ち並んでいます。(写真提供:三島市役所)
右:現在も残る川端の跡。水辺から離れた家では共同の川端を利用していました。1948年までは上水道はわずかしかなく、川や井戸の湧水を生活用水に利用していたそうです。(写真提供:三島市役所)
そんな豊かな水文化の根付く三島市に変化が表れ出したのは、昭和30年代後半。日本は戦後の高度経済成長期を迎え、上流地域での産業活動の活発化によって盛んに地下水が汲み上げられたことにより、湧水は減少、水質汚染が進んでいきました。1962年には、それまで決して枯れることのなかった楽寿園の小浜池が涸渇する事態にまで陥りました。そんな環境変化によって、次第に汚れた川の風景や現実が常態化していくと、あれほど水に愛着とこだわりの気持ちを強く抱いていた市民までもが、川を汚し、傷つけることへの罪悪感と道徳観が希薄化していきました。その結果、川には一部市民による家庭用排水の垂れ流しや投棄されたゴミ、家庭からの雑排水によってヘドロが溜まるなど、市民自身が環境悪化の原因になっていました。淀み悪臭を放つ川は、やがて市民の厄介者となり、清冽な川は消滅の危機へと瀕し始めていきました。
三島市の湧水は、三島溶岩流の先端下から湧き出た富士山の被圧伏流水※と考えられ、富士山から流れ出た溶岩の末端部で湧き出しています。今から約1万年前の富士山の噴火によって、約30キロメートルにわたる三島溶岩流と呼ばれる水を良く通す地層がつくられ、その地層の影響で、上流域で降った雨や雪が地下にしみ込み、溶岩流の中をゆっくりと移動して、下流の三島駅周辺の三島湧水群や、さらに下流の柿田川で湧き出しています。富士山の降雪降雨量は、年間約22億トンと言われていますが、長い年月地下をゆっくり流れて湧き出る三島の水は、清冽でおいしく、厚生労働省の“おいしい水”の基準を十分に満たしています。
※上下を不透水層で挟まれた帯水層を満たしている地下水。圧力がかかっていて、地下水面はない。