いまではサケの人工ふ化は当り前となっていますが、このような養殖が行なわれるようになったのは明治時代以降のことです。しかし自然を利用した増殖といったことはすでに江戸時代から行なわれていました。新潟県の三面(みおもて)川では、下級武士であった青砥武平治(あおとぶへいじ)が「種川(たねがわ)制度」を提案して、時の藩主に受け入れられ、サケの増殖に成功しています。種川制度というのは、産卵のために川を溯ろうとするサケを、川の中に竹などで作られた籬(まがき)を立てて囲い込み、そこの場で自然産卵させようというものです。溯上期には、河口付近の漁が禁止されました。江戸時代には、こうした種川制度を取り入れていた藩が他にもいくつかありました。そして明治時代になると種川制度は全国に広がっていきました。
ところで、種川制度のとられていた川では、たんにサケを囲い込んで自然産卵させていただけではありませんでした。三面川の河口付近の山は、入山や伐採などを禁止する「御留山(おとめやま)」制度によって厳しく管理され、積極的に造林も行なっていたようです。
明治9年には、政府は「官林仮調査条例」を制定し、こうした沿岸部の森林を保護する方針を打ち出し、明治30年に制定した森林法の中に「魚つき保安林」として明記したのです。
サケの産卵場所は水がきれいで川底が細かな砂利のようなところです。山をきちんと管理すれば、河口が泥水で濁ることを防げます。また、緑陰はふ化したサケの稚魚の餌となる虫の供給源となったり、さらに直射日光を遮り魚の休息場所をも提供します。こうしたことから、魚つき林という考え方が生まれてきたようです。かつて、魚つき林は魚寄場、魚付場、魚隠林、魚取場山、魚看山、魚付山、網代山など地方によって様々な呼び方がありました。
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岩船郡村上三面川鮭浚之図
(写真提供:村上市イヨボヤ会館)
村上藩(現・新潟県村上市)は三面川に種川制度を作りました。この制度によって本流をバイパスする河川を作り、故郷の川に帰ってきた鮭が安心して産卵できるようにしました。これは世界でも初めての「自然ふ化増殖システム」でした。 |
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