水の話
 
ひとつにつながる海と山
峠を越えた途端、眼下に美しく入り組んだリアス式海岸が見えてきました。
いくつもの小さな半島に囲まれた入江の中には、養殖筏(いかだ)も見られます。
ここは三重県南島町。漁業で生きる町であり、昔からの魚つき林がいまも残されています。
一方、海のない岐阜県に、馬瀬川沿いに細長く伸びた馬瀬村があります。
この村では、渓流の保護などを目的とした魚つき林の保全が数年前から進められています。

昔の海は生きていた
 紀伊半島に連なる山々の東端が、海に落ち込むようにして作られた海岸線。その先には小島が点在し、黒潮洗う熊野灘が広がります。ここのリアス式海岸は延長120キロにも及びます。その一角を占める三重県南島町。古くから沿岸漁業を中心とした漁業が盛んな町です。最近は波静かな内湾を利用したハマチやタイなどの養殖漁業も行なわれています。
漁港では、朝早くから漁師たちが魚の水揚げに精を出しています。船付場から海の中を覗くと、魚たちの泳ぐ姿ばかりか海底の岩や砂までもはっきりと見通すことができます。港の先に見える半島を覆う森は魚つき林です。これらの森が魚つき林に編入されたのは明治42年です。海岸沿いに生えている木の多くは潮風に強いウバメガシです。昔から自然に生えている木です。昭和の初期までは、海岸線から数十メートルの範囲に生えている木は伐採をしないということが、漁師の間で取り決められていたといいます。しかし、最近は魚つき林という名前を知らない若い漁師もいます。
都会から見れば、うらやましいほどに美しく、豊かな幸をもたらしてくれる海です。春はメジナ、メバル、タイ、キス、イシモチ、カサゴ、ベラなどが、夏にはイシダイ、クロダイ、スズキ、キス、コチなどを求め、多くの釣り客も訪れています。
それでも地元で漁を営む人の中からは「昔の海は生きておった」という声が聞こえてきます。30~40年前までは、沖に出かけなくても湾の中でいろいろな魚が獲れ、岸からはイカを釣ることもあり、夕食のおかずに苦労することはなかったそうです。その後、赤潮の発生や養殖魚が病気に罹るといったこともありました。
魚が少なくなった原因に、藻場の減少があると漁師はいいます。昭和40年代から養殖漁業が急激に盛んになり、魚に与える餌がヘドロとなって海底に堆積していきました。餌として与える生のイワシからは多量の脂がでて、海岸に付着しました。釣り客の中には不法にゴミを捨てる人もいました。こうしたことが海を汚していったのです。しかし、養殖魚の餌を脂の少ないものに代えたり、ゴミの始末を訴えるなどの努力によって、きれいな海を取り戻してきました。

斜面 古くから沿岸漁業が盛んであった三重県南島町。岬や半島を覆う森の多くが、魚つき林として指定されています。これらの森は、周辺に降った雨による土砂などが、直接海に流入することも防いでいます。
半島の森 半島

木があるとたくさんの魚が集まってきた
 ボラは群れを作ってやって来ます。昔は丘の上の木に登り、ボラの群れを探しました。群れが見つかると皆で海へ出たのです。ところがボラは物音や物影などに敏感に反応します。特に明るい場所では、ちょっとした物音がすると、すぐに散ってしまいます。しかし、木陰などがある海岸べりなどでは、割合と近くにまで寄ることができました。突端に林があると漁がしやすかったのです。一方、海岸べりの木を伐採して、その部分が明るくなると、魚が集まりにくくなったのです。地元の漁師たちは、経験によって、海岸に森があると漁がしやすかったことを知っていたのです。
魚の減少や海の汚れといっても、あくまでも昔と比べてということで、都会から訪れる人から見れば、目の前にはどこまでも美しく、豊かな海が広がっています。漁師の話の中に気になる言葉がありました。この辺りには大量の水が流れ込む川がないというのです。たしかに小さな川は何本かありましたが、水のない川もありました。しかし、昔はもっとたくさんの水が流れていたそうです。
川は海の生き物を育てるのに大切な山からの養分をたらしてくれます。川の水がなくなれば、海への養分の供給もなくなり、魚の餌となるプランクトンや産卵場所を提供する藻場の喪失にもつながります。ここの海を、いま以上に豊かな海とするためには、山のことを考えなければならないのかもしれません。

漁師1 いけ簀
漁師2
朝早くから、海で獲れた魚の陸揚げに励む漁師たち。一部は港の中に作られた、養殖用のいけ簀の中に入れられます。これら海の幸も、魚つき林によってもたらされているのです。岸辺から見た海は、底まで見透せるほど水が澄んでいます。


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