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湖の名前は、一般には琵琶湖のように、最後に「湖」という字が付きます。
ところが日本で2番目に大きい湖「霞ヶ浦」には「湖」という字が付きません。
「浦」は海や湖が陸地に入り込んだ入り江や、海辺などを意味します。
実際、かつて霞ヶ浦は海の一部でした。その海がときには自然の力によって、またあるときには人の手によって様々に変化をしてきました。 |
1,000年前までは入り江だった霞ヶ浦 |
霞ヶ浦の周辺は平たんな地形が続いています。湖水面と田んぼは、ほぼ同じ位の高さに見え、堤防の外側にはイネやハスの田んぼが広がります。遠くに筑波山がかすんで見えています。日本で見られる他の多くの湖とは、どこか違った雰囲気を持っています。周囲に平たんな地形が広がっているからでしょうか。
霞ヶ浦一帯は、何10万年以上も前は海の一部でした。その後に訪れた氷河期に、海の水は氷河や南極大陸に閉じ込められ、海水面は低下していきます。その当時は東京湾も陸地の一部となっていました。富士山の火山活動も活発で、霞ヶ浦周辺にも火山灰が厚く堆積していきます。この火山灰が現在の関東ローム層をつくり、霞ヶ浦のあたりは陸地となっていきます。陸地の上には古鬼怒川が流れ、徐々に浸食されていきました。
氷河期が終わると氷河や南極に閉じ込められていた水が溶け、海水面は上昇します。いまから約6,000年前の縄文時代になると現在に比べ、地球の気温は数度上昇し、海水面も現在より数メートル上昇します。海水が川によって陸地に刻まれた谷に沿って侵入し、霞ヶ浦一帯には大きな入り江がつくられました。その後に訪れた小氷河期による気温の低下に伴い、海面は徐々に後退していき、現在の霞ヶ浦の輪郭が形成されたのです。
8世紀に編纂された「常陸(ひたち)風土記」という書物には、クジラ以外ならどんな魚でもいたとか、ハマグリが獲れたとか、藻を焼いて塩をつくっていたと書かれています。名前も「流れ海」と呼ばれていました。海の一部といっても、陸地へ深く切り込むような内湾です。霞ヶ浦へは、いくつもの河川が流れ込み、満潮時には潮が逆流し、流れのある海のような光景を見せていたのでしょうか。流れ込む河川は多量の土砂を運んできます。土砂が湾口に堆積し、海水の流入量は減少していきます。こうして湾は、海水と淡水の混ざった汽水湖へと変わっていきました。
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海水から汽水、淡水へ |
浅間山や富士山は過去に幾度となく大噴火を繰り返してきました。そのときに降った大量の火山灰は川へ流れ込み、川床を浅くします。浅くなった川は度々洪水を引き起こすようになりました。
現在の利根川は千葉県を経て太平洋に注ぎ込んでいますが、文禄3年(1594年)から承応3年(1654年)にかけて行われた河川改修工事以前は東京湾へ直接注いでいました。
この工事によって江戸の町は洪水の被害から守られるようになりましたが、霞ヶ浦の湾口部にはさらに土砂が堆積し、淡水化が進んでいきました。こうして現在の霞ヶ浦がつくられました。 一口に霞ヶ浦といっても、西浦、北浦、外浪逆浦(そとなさかうら)、及び北利根川、鰐川、常陸利根川の総称で、一般に霞ヶ浦と呼ばれる場合は西浦だけを指すことが多いようです。
湖の周辺は全国でも有数のハスの産地です。この辺りでのハスは奈良時代頃から栽培されていたようですが、本格的に栽培が行われるようになったのは、昭和50年頃からです。湖岸は洪水の被害を受けやすい場所です。もともとは水田であったのですが、米の減反政策に伴い、収益性のよいハスに転換されていったのです。
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洲浚(すさら)い賦役関係図
霞ヶ浦は利根川が運んでくる土砂のため流れが悪くなり、たびたび洪水がおこり農民を苦しめていました。そこで、川底の土砂をさらったり、川幅を広げる工事が行われることになりましたが、15の村が助郷という賦役のために人手が出せないなどの理由で参加することに反対していました。最初、この意見はなかなか聞き入れてもらえませんでしたが、百姓郡蔵などの働きで文化13年(1816)から始まった反対運動は7年目にやっと幕府にききいれてもらうことができました。(資料:霞ヶ浦町郷土資料館) |
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現在の霞ヶ浦の水深は最深でも7メートル、平均は4メートルです。北浦、西浦、常陸利根川を合わせた湖岸線の合計は252キロメートル、湖面積は220平方キロメートルで、面積は琵琶湖についで日本で2番目の大きさを誇ります。 |
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霞ヶ浦周辺は稲作や日本一の生産を誇るレンコンの栽培が盛んです。農業にも霞ヶ浦の湖水が利用されています。 |
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