霞ヶ浦は、徐々に内湾から湖へと変化していき、水質も海水から汽水へと変わっていきました。湖の水は常陸利根川を経て太平洋へ流れ出ますが、この川の水はけは、よくありませんでした。大雨が降れば霞ヶ浦流域に洪水の被害をもたらしました。
戦後になって、常陸利根川の浚渫(しゅんせつ)や川幅を広げるなどの河川改修工事が行われ、洪水の被害はなくなりましたが、河川改修の結果、海水の逆流による塩害といった問題が発生するようになり、1963年に常陸利根川と利根川とが合流する地点に海水の逆流を防ぐ逆水門と呼ばれる河口堰がつくられました。こうして霞ヶ浦は汽水湖から完全な淡水湖となっていきました。現在の霞ヶ浦の水深は平均約4メートルしかありません。水面と海面との差はわずか16センチです。
一つの湖が、海水から汽水、淡水へと変化をしていけば、その水を利用して流域に暮らす人々や動植物にも変化をもたらします。
霞ヶ浦がまだ内湾であった平安時代には、漁労や製塩などを営む人たちがいました。その中から、漁業を専業とする人々が現れます。舟を操ることを得意とし、舟運も手掛けました。彼らは海夫とよばれました。海夫は優れた航海技術をもち、ときには東南アジア方面まで出かけていたのではないかともいわれています。
ところが江戸時代になる頃から霞ヶ浦と海との間は徐々に狭まり、淡水化が進みます。周辺では干拓も盛んに行われ、新田が開発されていきました。湖岸にはアシやマコモが繁り、舟の運行の妨げとなりました。海が湖へと変化していくのに伴い、荒波をかき分けて進む航海技術は廃れていきました。漁業も海の魚から汽水魚や淡水魚が中心の漁となっていきました。海夫はかつての勢いを失っていったのです。 |
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利根川と常陸利根川が合流する辺りにつくられた河口堰によって、霞ヶ浦への海水の逆流を防ぎ、塩害を防ぐことができるようになりましたが、汽水から淡水に変わることにより、湖の魚介類にも変化が起きています。 |
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