フジクリーン工業株式会社
水の話 サケの遡上part1
帰ってきたサケの群れ

サケの資源を回復させるのに80年
 明治時代になるまで、北海道の川には多くのサケがいました。しかし、北海道の開拓が進むにつれ、和人によるサケの捕獲が増えていきます。河口での大量捕獲も行われるようになったため、遡上するサケは激減していきます。明治の中頃まで、北海道には1000万~1500万尾のサケがいたと推測されています。それが明治23年(1890)を境に数を減らしていったのです。
 一方、明治になるとすぐ、欧米の先進技術の一つとしてサケの人工ふ化が日本にも導入され、またたく間に全国にふ化事業が普及します。明治11年にも北海道の千歳川でふ化試験が行われています。しかし、このときはまだサケがたくさん捕れたこともあり、4年ほどでふ化事業は中断してしまいます。そして北海道でふ化事業が再開されたのが明治21年で23年には標津、羅臼など12の民営ふ化場がつくられました。
 しかし、ふ化事業が始まってからも、長い試行錯誤の時代が続きます。ふ化に成功し、放流してもサケが増えないのです。こうした状況が、昭和45年頃まで続いたのです。サケが増えたということは、北の海から生まれた川を目指して帰ってくるサケが増えたということです。ただし、増えたといっても、放流する稚魚を増やしただけではありません。帰ってくるサケの割合(回帰率)も大きく伸びたからです。

 自然の状態で、個体数を維持し続けていくには、2尾の親から生まれた卵の数に関係なく2尾が成長して再び産卵できるようになればいいはずです。サケのメスは約3000個の卵をもっています。このうち2尾が成長して親となればいいわけですから、その確率は0.067%です。ただし、遡上の途中で産卵する前に息絶えるものもいますから、実際には0.1~0.2%くらいが、戻ってくることになります。ところが、現在北海道で行われているふ化放流事業によるサケの回帰率は平均で4~5%となっているのです。自然の回帰率の数10倍ということです。

産卵場所を求めて忠類川をのぼるサケ。かつては、遡上するサケの群れで、川面が真っ黒になったこともあったといわれています。

放流の方法と時期が決め手



標津町を流れる忠類川の河口付近<上>と上流方面<下>。橋の上からサケの遡上を観察することができま
 回帰率が同じならば、より多くの稚魚を放流した方が、数としてはたくさんの魚が戻ってくるように思われます。ところが、卵からふ化した仔魚は、お腹に栄養分の入った袋をもち、ここからの栄養で、2か月間を砂利の中で過ごします。産卵されてからほぼ4か月目で自由に泳ぎ、エサをとるようになるのです。稚魚がエサにするのはユスリカなどの水生昆虫などです。これらエサの量には当然、限度があります。その限度を超えて稚魚を放流したとしても、魚は育たないというわけです。そこで稚魚になったらすぐに放流してやるのではなく、ある程度、大きくして丈夫になるまで育ててから放流するようになったのです。さらに、無事に河口まで下ったとしても、海にエサがなければ、そこで弱ってしまいます。海に出た稚魚は、動物性プランクトンをエサにして、10cm前後の幼魚に育ち、6~7月頃に沖合域へと移り、北海道の沿岸に沿って、オホーツクの海へと旅立っていくのです。海にプランクトンが発生する時期と稚魚が海に到達する時期とが合うように放流してやれば、北の海へ無事に行ける魚も増えるのです。


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