フジクリーン工業株式会社
水の話 藍染めpart1
藍―ジャパン・ブルー

寒の水で仕上げる藍づくり


蓼藍は2月上旬に種を播き7〜8月にはもう収穫できますが、畑の管理には結構手間がかかります。1回目の刈り取りを終えたのちも肥料などの手入れをすると、1ヶ月後に再び2番刈りが行えます。その後もさらに成長し、穂状の花をつけます。
 蓼藍は春に種をまくと、夏にはもう成長し、9月には穂状の小さな赤または白い花を咲かせます。花をつける前に、根元の少し上の部分から刈り取ります。刈り取った後も、すぐに芽が伸びて成長するため、それも収穫します。さらにその後も芽を出して成長しますが、これは翌年に蒔くタネを取るため、そのまま花を咲かせます。

 収穫された蓼藍は、すぐに細かく刻み、風力で葉と茎とに選別します。葉は、天日や機械を使い乾燥させます。乾燥した葉は秋になるまで保管します。

 藍染めの藍が、美しい色を出すようにするには、この乾燥させた葉を醗酵させなければなりません。醗酵させた藍をすくもと呼び、すくも作りをする人を藍師と呼んでいます。 すくも作りは寝床と呼ばれる建物の中で行われます。床は下の方から砕石、砂、もみがら、砂の順に敷き、一番上を粘土で固めて平らにしてあります。この上に乾燥して保管してあった葉を山積みし、水を打ちます。こうしておくと葉は醗酵をはじめます。この作業を寝せ込み、といっています。醗酵した葉は70℃くらいの熱を発します。均一に醗酵させるため、数日おきに水を打ち。よくかき混ぜてやらなければなりません。これを切り返しと呼んでいます。1mほどの高さに積まれた葉を、しかも高温となり、醗酵によるアンモニア臭がたち込める部屋の中で切り返す作業は大変な重労働です。葉を積み上げる高さや、打ち水の量によって、すくもの出来具合いが大きく左右されてしまいます。
 こうして3ヶ月ほどたったところで、最後に「寒の水」をかけ、切り返し作業は終わります。あとは「ふとんかけ」といって、醗酵した葉をむしろで覆い、徐々に温度を下げてやります。これですくもの出来上がりです。最後に仕上げる寒の水は、寒さのための雑菌などが少ないため、すくも自信を長く保存でき、藍染をしたときも、いい色が出るためだといわれています。昔はすくもを一定の大きさの藍玉というかたまりにしていましたが、いまは俵に詰めて保管、運送をしています。


すくも

乾燥した藍の葉

葉を発酵させてつくったすくもの品質は手板法というやり方で鑑定していました。(資料:藍の館)
<すくも・手板法>
すくもの良否を肉眼で鑑定する方法に手板法があります。すくもを手のひらに乗せて適量の水を加えてへらで練り、“ていたがみ(加賀半紙)”にガラス製の“しるいた”で鑑定した液汁をつけて押印します。これを“しいたけ”といいます。今年のすくもと来年のすくもとを比較するため見本として、つぼに入れて保管します。

吉野川が育てた藍
 かつては日本中で作られていた藍も、いまでは、徳島県が唯一の産地といってもいいくらいになっています。藍が減少したのは合成染料の発達によるものです。では、徳島が日本一の藍の生産地となったのはなぜでしょう。
 徳島には四国三郎の異名をもつ吉野川が流れています。そして毎年のように氾濫を繰り返していました。しかも、洪水は米の収穫時期の前に起きました。ただし、洪水は肥沃な土を、毎年上流から運んでくれる結果にもなっていました。
 蓼藍の収穫時期は、吉野川が氾濫する前です。良質な藍をつくるには、蓼藍に肥料をたっぷり与えてやらなければなりません。与える肥料が少なければ、土地はすぐやせ細るため、蓼藍の連作ができなくなってしまいます。つまり、吉野川の氾濫が、米作りの代わりに藍を育てることにもなったのです。土地が藍作りに適していたこともあって、もともと徳島は良質な藍が作られていました。そこへ15世紀の中頃に青屋四郎兵衛戸いう藍作りの名人が移り住みました。領主たちも、藍作りを奨励しました。一つには米の代わりとして、藩の財政を圧迫することにもなりかねない吉野川の堤防構築という大土木工事をせずに済むからです。さらにいえば、大阪という大商業地域から、比較的近くにあったということかもしれません。


(写真撮影:吉田 弘氏上>)
刈り入れから乾燥、すくもづくりまで藍づくりはかなりの重労働です。


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